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(愛蔵していたファイルより)

                    心に残る1曲

枯葉――それは青春の挽歌

ああ、僕は願わずにはいられない 君にも思い出してほしいと
僕らが愛しあっていた あの素晴らしい 幸せの満ちあふれていた日々を
太陽だって 今より強く輝いていた筈だ
ほら 僕はまだ 忘れられずにいる

今は 北風の吹く 暗い夜
枯葉が シャベルで 集められ棄てられる
僕らの思い出すべてが そして悔恨までも
枯葉のように 忘却のかなたに棄てられてゆくのか
でも 僕は忘れられない 君があの頃うたってくれた唄を
あれは僕たちにピッタリの唄だった
僕を愛していた君 君を愛していた僕
どんな時も ふたりは一緒だった…
 この詩で歌われるシャンソンの名曲「枯葉」は、第二次大戦が終わった翌年1946年につくられた。ジャック・プレヴェルの詩、ジョゼフ・コスマの曲。マルセル・カルネの映画「夜の門」の主題歌として、主演したイヴ・モンタンが歌った。シナリオもプレヴェルが書き、音楽はコスマが担当した。カルネ―プレヴェルというコンビは、戦前・戦中に「霧の波止場」、「悪魔が夜来る」、「天井桟敷の人々」などの映画史上に残る傑作を作っている。彼らの作品のうち、「天井桟敷」ほか何本かは、コスマが音楽を書いた。「霧の波止場」は、ジャン・ルノワールの「大いなる幻影」(この音楽もコスマ)とともに、独軍占領下のフランスで上映禁止処分を受ける。「悪魔が夜来る」は占領下、「天井桟敷」は戦後すぐ上映されたが、どちらも抵抗の意志を表したものと受けとめられ、映画それ自体も高い評価を受けた。
 作曲家コスマは、元ハンガリーの人で、ドイツに留学、ナチスが政権についた33年にフランスに移り住んだ。ベルリン時代にはアルベルト・ブレヒトの移動劇場に入り、ハンス・アイスラーやクルト・ワィルと一緒に仕事をしていた。後にサルトルやアラゴンの詩にも曲をつけている。
 詩人でシナリオ作家のブレヴェルは、もとシュルレアリストの陣営に参加していたが、その平明な社会性のゆえに、シュルレアリストの組織を除名された経歴がある。庶民的感覚を常に保持していて、肩ひじ張らずに貧しい人々、抑圧された働らく人々の側に立ち、権力者や権威には風刺の矢を放って弾該する。手練れの職人芸と、鋭い言語感覚をもった詩人として、高い評価を得ていた。
 「枯葉」の詩は、一見、過ぎ去った愛の日々への未練を唱うだけの内容だが、その基底に作者たちの、そして歌い手の生き方、感じ方があり、それは必ず歌の細部にそれと気づかせずに現れて、時代と共鳴しあうのだ。
 歌い手のモンタンについてはまた触れるが、「枯葉」を吹きこんだのは、モンタンだけではない。エディット・ピアフをはじめ十指に余る著名シャンソン歌手が、レコードにしている。なおアメリカでも、ビング・クロスビーやフランク・シナトラ、ナットキング・コールなど何人も吹き込んでいる。また数多くのジャズ・ミュージシャンが、「枯葉」を器楽演奏のレパ一トリーにしている。
 このように、まさに不朽の名曲ともいうべき「枯葉」が、最初に発表されてから5年ほど、全く評価されなかった。それが1950年代に入る。と、爆発的な人気で迎えられはじめた。何故だろうか。
 時代が変り、人々の感受性も変り、この歌の真の魅力が受けとめられる土壌ができたのだと見るしかない。では、時代はどう変ったのだろうか。
 1940年代後半といえば、長く暗い戦争の日々からの解放感にあふれ、いやおうなくアメリカの陽光が降りそそいだ「戦後」。経済的には貧しかったが、将来の繁栄へむかう槌音がひびいてくる。その描く近未来のイメージは、当時のアメリカの姿そのままとなる。この時代、映画でハリウッドに対抗できたのはロッセリー二やデ・シーカらイタリアのネオ・リアリズムであったし、歌では、日本では、ロシア民謡などの合唱曲かもしれぬし、フランスでは、深刻なシャンソン・レアリストと呼ばれる人生の苦悩を重くうたったものか、あるいは逆にジャズ風アレンジのアメリカンポップス調のものが流行っていた。「枯葉」のように、平明でなにげない詞と、ロマンチックで溺々たる曲が、人生の残酷な一面をそっと、美しく提示する作品の出る幕ではなかったのだろう。
 しかし時代は移る。1950年代に入るとフランスは、泥沼化したベトナム戦線へ、アメリカの支援を要請するに至る。行き着く先はディエンビエンフーの大敗北だ。そのアメリカは、マッカシーの赤狩りで、映画監督や作家たちが査問され、屈服して友を売るか、抵抗して追放されるか、の選択をせまられていた。45年からの終戦――解放の明るい時代から、50年代前半という、冷戦と抑圧の暗い時代に入ったのだ。
 日本でも同じだった。暗い時代にうつむきがちに歩く僕らの頭上を、モンタンやピアフの歌声が流れていった。モンタンの「枯葉」は朗誦から入って、後半から甘さをたたえた悲しい歌になった。ピアフのは、彼女らしく魂の奥底から全存在をかけるような歌唱だったが、後半のリフレインが何と英語だった。すこし時代おくれのアメリカ化への迎合が、むしろ侘びしさをいや増した。
 そう、暗い時代だった。1950年に共産党がコミフォルム批判で、主流所感派と反主流国際派に分かれた。共産党中央委員全員の公職追放、朝鮮戦争勃発と続いて、「アカハタ」の発行が停止され、報道機関からレッド・パージがはじまり、すべての企業に拡大してゆく。翌年には社会党が左右に分裂した。52年には血のメーデー、山村工作隊ということもあった。
 やがて1955年に六全協で共産党は統一を回復するが、自已批判の洪水。社会党も統一し、保守合同も成った。国際的には朝鮮戦争の停戦やスターリン批判、「雪どけ」と季節は50年代後半に入って大きく変ってゆく。しかし、この暗い時代が個々人に残した傷は、そう簡単に癒されはしない。
 僕のまわりで見れば、六全協後に同じクラス40人ほどの中から、所感派中央に忠実な党員だった2人の友が自殺する。1人はバンガローでの縊死、もう1人は服毒死。精神障害になった友も何人もいた。そのご人生の岐路に立って方向をきめるとき、彼らの仇を討つという思いが、動機の一部に潜んでいたことは否めない。「枯葉」は、そういえば、束の間の幸福と、必然的なその崩壊、忘却によっても癒されない傷をうたっているのだ。
 もういちどモンタンにもどろう。モンタンは政治的発言も大胆に行った、生粋の労働者出身のモンタンは、政治についても直情的で、適当に“良心派”らしく振舞ってやり過ごすという態度はとらなかった。当初から左翼を自認していた彼は、ソ連やフランス共産党の良き友とみられていた。1950年のフランス・ディスク大賞をとったが、反戦歌ということで放送禁止にされた「バルバラ」のほかにも、同じく放送禁止になった「兵士が戦場に行く時」や「ガレリアン」を歌って反戦、反抑圧の明確な意思表示をしたし、アメリカで1950年代にマッカーシー旋風が吹き荒れると、妻シモーヌ・シニョレとともに、アーサー・ミラーの赤狩り告発脚本「るつぼ」のフランス版を上演している、このとき脚色は、サルトルがかってでた。
 1956年のハンガリー事件直後の訪ソコンサートーツアーでは、ソ違の態度は理解できないと言明しつつ、コンサートは行ったので、複雑な立場に立たされた。このあと、68年の「プラハの春」に連帯し、73年のアジェンデ政権へのクーデタに際しては緊急のコンサートを行って、チリ人民支授の募金を集めた。81年のポーランドの戒厳令、「連帯」への弾圧にも、明確な抗議の意思表示をした。とくにコスタ・ガブラスと映画「告白」を撮ってから、モンタンは軸足をはっきりと、ソ連、東欧のスターリン体制批判の方へおいたように見えるが、既存のイデオロギーに加担せず、真実が隠され、それによって民衆が抑圧される、すべての体制に立ち向う姿勢をとった、と見るべきだろう。要するに、彼は正義の人だったのだ。彼は、この世に確かなものなど何一つない、と晩年に語っている。