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『音楽人通信』1997年5月~2000年10月 連載より抜粋

音楽ユニオン運動の二十五年――思い出すままに

〈連載1〉

そもそもの馴れ初めは――まえがきにかえて
 早いもので、私が音楽人たちのユニオン運動にかかわってから、二十五年の歳月が流れた。この三月をもってユニオンの事務局を去るにあたり、私的な思い出で良いから、この二十五年をふりかえって、「音楽人通信」に連載せよ、というお達しを受けた。正史を書くのだと大変だが、私記なら、とお引き受けした。
 第一回は、まえがきにかえて、私と音楽人の組織とのつきあいのはじまりについて、書くことにする。
 そもそも私が音楽人たちの運動にかかわるようになったキッカケは、直接には日本フィルのストライキからだった。それは一九七一(昭和四六)年の暮れのこと。当時私は、広告会社の組合の長い争議を経て、さる業界団体の事務局につとめていた。日本フィルのストライキ―たしか第九の演奏会だった―を新聞で知った。長いこと広告の労働組合をやっていたので、民間放送や新聞の労働組合には知人がたくさんいた。そして、TBSのジョカーズ――今はどこにもないが、当時はたくさんあった放送局のバンド――や大阪朝日放送のサロンアンサンブルの闘争は、民放労連が指導し、そのつながりで、NTVやフジテレビがスポンサーの読売日響、日本フィルの組合結成やその後の闘争も、民放労連が面倒をみていた。
 たまたま日本フィルのストの直後に、民放労連の幹部に会う機会があったので、私は、すこし非常識だったかもしれないが、語気鋭く難詰した――生まれたばかりの赤ん坊にストライキなどさせては駄目じゃないですか。と。
 私は、長くはげしい争議のなかで、日本の労働組合運動は、企業内組合という宿痾(しゅくあ)をかかえていて、ここから脱却しないとどうにもならない、これは労働組合だけでなく、日本の社会の健康な発達を妨げると信ずるに至っていた。
 そこへ、音楽人の労働組合運動が始まり、ストライキまでやったという報道に接して、ビックリすると同時に、たいへんな危惧をいだいた。もしかすると、ここに、つまり音楽人という高度な職能をもった人たちのユニオンに、私のいう日本の労働組合運動の宿痾から抜けだす、貴重な道があるかもしれない、と咄嗟に感じたのだが、同時に、そんな新しい芽を、日本の経営者たちが黙って見過ごす筈がないとも思わざるをえなかった。
 こんな貴重な種を、一時の気分の高揚にゆだねて、史上初の本番キャンセルストライキなどやらせて、むこうが本格的に攻撃をしかけてきたらどうしようもないぞ、と私は言った。
 民放労連の友人は、私たちが面倒を見ているといっても、アドバイスする程度で、民間放送の労働者でもなければ、民放労連に加盟しているわけでもない、僕らだってストのことは知らなかったのだ、と答えた。
 これは、その場でおさまった。しかし、事態は私のおそれたとおり、日本フィルの実質的な経営者であるフジテレビの首脳たちは、財団解散、したがってオーケストラの解散という最もキツイ攻撃をしかけてきたのだが、それはあとのこと。
 年が明けると、なんと民放労連の友人から、音楽家たちが本気でユニオンを作ることとなった、ついては貴方に専従者として勤務してほしい、という声がかかった。
 前年の暮のことがあるので、何だこれは、とおもったが、年来の私の希望である、日本になんとか、企業内組合ではない、職能中心のユニオンを作れないかという願いが満たされるかもしれないと考え、よく調べもせずにOKしてしまうことになる。
 また、民放労連の紹介で、音楽人の組織づくりの相談にのっておられたのが、東京法律事務所の小島成一先生で、実は私が広告の組合運動をやっていた十年間、ずっとお世話になったというか、指導と援助をしていただいた方であり、小島先生の御推挙があったのも、踏みきる理由になった。
 こうして、まだ業者団体の事務局につとめている翌一九七二(昭和四七)年の春から、私と音楽人たちのおつきあいがはじまったのであった。
 それから、もう二十五年、四半世紀の歳月が、いまおもえばアッという間にたってしまった。
 アッという間だが、しかし思い出は、ヤマほど残った。いたらぬ点、不充分なことなど悔やまれることもたくさんあったが、それをはるかにこえて、素晴らしい日々の連続でもあった。次回は、ユニオンになるまえの、産声の段階の音楽人の組織について語ろう。

〈連載2〉

 歴史を書くのではなく私的な追想を、とこの連載の第一回目に書いたのだが、早速すこし脱線して、私がタッチするまえの、いわばユニオンの揺籃期について触れておこう。思い出を語るにも、バック・グラウンドを描いておくことが必要だから。
ユニオンの産声
 それは、一九六九(昭和四四)年にさかのぼる。この年、現在の日本音楽家ユニオンの結成を呼びかけた二つの組織、日本音楽家労働組合(日音労)と職能労働組合日本演奏家協会(ユニオン日演協)が、いわばその胎動をはじめた。やがて日音労に変身する神奈川県音楽家共済会(神音共)と、日演協を準備する楽器別協会のいくつかが、結成されたのだ。神音共は、横浜のバンド・リーダーたちが話し合いを重ねて、生まれた。楽器別協会は、やがて二十を超すのだが、この年にベース・プレイヤーズ・アソシエイションを最初に、クラ・サックス、ギター、打楽器の四協会ができた。
 翌一九七〇(昭和四五)年には、神音共が、日本音楽家労働組合になる。主としてジャズ・バンドのミュージシャンが、バンド・リーダーを先頭に、五百人以上参加して十月一日に結成された。楽器別協会も、五月に懇談会ー通称百円会ーをはじめる。首都圏で初めてのシンフォニー・オーケストラの労組も結成された。読売日本交響楽団労組が誕生したのだ。
 一九七一(昭和四六)年になると、日音労は、神奈川だけでなく首都圏にも組織をのばし、二、〇〇〇名の組合員をもつ組織になった。楽器別協会は、百円会から脱皮、四月十九日に日本演奏家団体協議会を結成、十七楽器別協会、一、二一三名が参加した。オーケストラでは、東京都交響楽団、NHK交響楽団、、日本フィルハーモニー交響楽団で労組が結成され、これで東京のスポンサードオケのすべてに労働組合ができたことになった。十一月には、劇場オケである東宝オーケストラが組合を結成した。前回書いた日本フィルのストはこのころ起こった。
 なお、楽器別協会は、フリーのスタジオミュージシャンを中心に、フリーのジャズ・ミュージシャンとクラシック・プレイヤー、また、各オーケストラの楽員も組織していたので、オケ労組の組合員は、ほとんど全員何らかの楽器別協会のメンバーだった。
 翌一九七二(昭和四七)年には、日音労がその組合本部を横浜から東京へ移転、三、〇〇〇名めざす組織へ成長する基礎を作った。
 日本演奏家団体協議会は、十月一日に単一組織の職能労働組合日本演奏家協会へと発展的に転化した。結成時の組合員は一、四四四名だった。私は、この年の春から日演協の準備のお手伝いをし、八月一日から専従事務局員になったのだ。
音楽人たちを起ち上がらせたもの
 それにしても、この一九六〇年代末から七〇年代初頭へかけての二~三年は、まさに疾風怒涛のいきおいで音楽人たちの組織化が進んだ。何故だろうか。
 もちろん、音楽人たちを取り巻く環境が悪化したからにほかならない。大雑把にいえば、七〇年に起ち上がったのは、それに先行する一九五〇年代後半から六〇年代の十数年間に、状況が大きく変わったからだ。ジャズ関係でいえば、講和条約の発効とともに、占領軍のキャンプが縮小された。フリーのスタジオ関係の仕事は膨張の一途をたどっていたが、技術革新は、人間的余裕をなくし、生の音楽の道をせばめた。
 オーケストラプレイヤーの賃金は、この十年間で一般サラリーマンの倍から半分へと、急下降した。ハウスも、スタジオも、出演料は上がらなかった。NHKも、レコード会社も、なんと五~六年間出演料をすえおいたままだった。一方、春闘が高度成長の波に乗って軌道にのった十年、サラリーマン諸氏や労働者の所得はまさに倍増した。もはや「戦後」ではなかった。しかし音楽人たちは戦後的状況よりも悪化したのだ。たしかに、「戦後」の音楽人たちは多少我が世の春を謳歌したかもしれないが、それははかなく短い夢だったのだ。
 そして無権利。社会が全体として経済最優先、もうけ第一主義になると、音楽人たちへの風当たりは強くなった。そして守るべき手段――つまりユニオンをもたなかった。音楽人たちは、どんなジャンルの、どんな職場でも、人間的尊厳の磨り減らし競争を強いられていた。雇用者の、あるいはマネージャーやら業者やらの顔色をうかがうことに気をつかう毎日。おまけに一般労働者なみの社会保障も身分保証もない。これでは起ち上がるしかないのだ。
他の地方のユニオン
 首都圏以外でも、音楽家の組合はあった。とくに関西は早かった。名前が同じだが、大阪に本部のある日本音楽家労働組合(同盟)、大阪芸能労組(総評)、やはり大阪に本部のある日本放送協会芸能員労組、宝塚音楽家労組、京都市交響楽団の組合(京都市職労傘下)がその主なものだった。
 さて、次回は、こんな状況だった音楽人の組織と私の、最初の出会いから語ることにしよう。

〈連載4〉  

 日本フィル争議のはじまり
 ともかく、ユニオン発足前の、日演協の役員、委員たちのエネルギーはすさまじかった。一九七二(昭和四七)年の三月から九月まで約半年間にわたる準備期間、私もいやおうなくその渦中にまきこまれていた。
 前回に述べたように、毎週、役員の会議とその他の専門部的な会議が行われていた。そこへ権利侵害事件がいくつも起こって、会議の数は増加した。しかも、当時の音楽人たちの会議は、初心の情熱にまかせて、しばしば一時、二時という深夜にわたるものだった。
 当時起こった争議の中で、社会的にも大きな波紋をまきおこしたのは、日本フィルハーモニー交響楽団の財団解散、全員解雇事件だった。偶然とはいえ、私が音楽人とかかわりをもつ最初のキッカケとなった日本フィル労組のストライキは、私がおそれていた通り、経営者の乱暴な攻撃につながっていった。
 日本フィル労組が、本邦最初といわれる本番キャンセルのストライキを断行した一九七一(昭和四六)年十二月十九日の直後に、日本フィルのスポンサーであるフジテレビ、文化放送、産経新聞グループの長であるフジの鹿内信隆社長は、日本フィルの解散を決めたといわれる。まさか、そんな非常識な、という楽員や音楽界の願いや観測もふみにじって、翌一九七二年三月には、援助金という名の、日本フィル財団維持費用の打ち切りを発表した。その当然の結果として、六月には、財団理事会が、経営が成り立たないという理由で財団を解散し、楽団員は全員解雇された。
 この事件から、実に十二年という歳月をかけた、日本フィルの権利回復闘争がはじまった。このたたかいについては、今後この連載の中でさまざまな機会にとりあげることになるだろう。この闘争は、単にオーケストラの分野だけでなく、音楽人のユニオン運動全体に大きな影響を与え、ユニオン運動の基本的な方向を指し示すものとなったのだから。今回は、ただ当時のマスコミの論調を中心に紹介したい。
大きく取りあげたマスコミ
 そもそも、準備段階の日演協自体が、また発足したばかりの日音労も、そしてオケ労組が、今日では考えられないほどひんぱんに、大きなスペースで、全国的な大新聞でとりあげられていた。そのごく一部だが、まず一九七一(昭和四六)年四月十三日の朝日新聞夕刊が十面トップで日演協設立準備会の写真と「スクラム組む音楽家たち/ユニオン結成進む」と書き、四月二十四日には読売新聞が二面トップ、写真つきで「演奏家、ベア大合奏/NHK相手に“闘争”」の見出しで協議会の結成を伝えた。
 さらに、十一月二十六日の毎日新聞東京面は、トップ記事で、第二回大会の大きな写真をかかげ、「オタマジャクシも団結サ」という白ヌキの横見出しで日音労の活動とミュージシャンの状態を報じた。十二月十六日、朝日新聞は社会面トップで腕章をつけた日本フィルのステージの写真、「交響曲“闘争”/賃上げ要求の日フィル」の見出し、スト翌日の十二月二十日はもとより、二十二日にも同紙は社会面トップで「スト決行」の厚生年金会館の写真に「貧乏すぎて音もあげられず/家族五人が二部屋に/日本フィルのメンバー」の見出しをつけた。連日の大ニュース扱いだ。つまり「事件」だった。
 これが、年を越し、財団解散の話が浮上したころから、論調はがらりと変わってきた。新聞はやはり大きく取りあげた。しかしそれは、「事件」扱いというより、芸能文化についての、とくにシンフォニーオーケストラのあり方、存続の可能性についての腰をすえた論評が中心となった。テレビも、NHKが特別番組を編成して、日本フィル事件とオーケストラの危機を論じた。
 著名な演奏家、指揮者、作曲家や評論家が新聞、雑誌、テレビでさまざまな論陣をはったし、学芸部記者が九日間にわたってかなり詳しくオーケストラの存続条件を調べて載せた新聞もある。そこにほぼ共通してみられる、今日の眼から見ると疑問を感じざるをえない点を紹介しよう。
 一つは日本フィル解散の原因である。フジテレビの社長の組合嫌いは有名で、ストライキがひきがねになったのは誰が見ても明らかだった。しかしマスコミでこのことを正面から報じたところは一つもない。わずかに週刊誌などがヤユ的に触れたていど。フジテレビ、文化放送が日本フィルへの「援助金」を止め、財団は運営がなりたたなくなり、他のスポンサーを必死で探したがなく、解散するしかない、と上っ面だけの報道に終始した。
 なぜ突然、オケ立の準備段階から十六年以上丸抱えでやってきたのを、解散に追いやったのか。それは、限られた国民の電波をタダで使用する権限を国から与えられ、巨大な利益をあげつづけている公共的な企業である放送局の行為として、正当化されるのか、という論評は全くといっていいほど存在しなかった。ストライキを理由に、楽団を解散するなどというのは、労組法違反の不当労働行為というだけでなく、真正面からの憲法違反だと述べたマスコミは一社もなかった。どこの社も、同じマスコミを仲間うちとしてかばったのか、放送局の責任を問う姿勢は全くなかった。かわりに出てきたのは、東京にオーケストラが六つもあるのは異常だ、という議論だった。

〈連載8〉


 ユニオンとして船出した日演協(職能労働組合日本演奏家協会)のなすべき仕事は、実にたくさんあった。労働委員会に届け出て労働組合としての資格認定を受け、法務省に法人登記をするという、形式面でやらねばならぬことをはじめ、組織体制をととのえなければならない。機関紙の発刊やら、財務、事務処理体制の確立やら、そしてなによりも、各楽器別支部の結成など、連日大変だった。執行委員会は毎週一回、中央委員会は毎月一回定期におこなわれた。日本フィルや東宝、キングレコードなどの争議も待っていた。
 しかし、なんといっても、結成直後の大仕事は、NHK出演料の改定交渉だった。

NHKへの要求

 この頃、――一九七二(昭四七)年―― NHKの出演料は、一番組三千円ということだった。同じスタジオでも、民間放送各社より格段に安かったし、レコード各社とも較べものにならなかった。単価が安いうえに、拘束時間と無関係に設定されていたからだ。
 日演協の対NHK要求の骨子は、基本料金の大幅アップと、拘束時間による割増制の確立、再放送料の確実な支払いの三点だった。
 このうち、とくに重点になったのは、基本出演料のアップだった。その他の制度的な問題は、一朝一夕に解決することはむずかしいからという判断からだ。執行部は、千五百円(五〇%)アップの要求原案を中央委員会に提示した。しかし、実際にNHKに出演する音楽人たち、とくにスタジオミュージシャンとフリーのジャズバンドの代表たちは強硬だった。三千円(一〇〇%)アップを要求して当然ということだった。
 組合運動の経験をいくらか積んだオケ労組や執行部は、一歩一歩着実に前進すべきだと主張し、臨時の中央委員会を設定してそれまでに検討することとしたが、結局、一〇〇%アップの要求できまった。そこには、長年にわたるNHKの基本的な態度「出演させてあげる」に対する職業人としての音楽人の憤りがこもっていた。
 彼らは、年末の大看板番組紅白歌合戦のボイコットも辞さないという決意を固めていたのだ。
「紅白」をかけた交渉

 そこまで言うのなら、実に重い荷物を背負わされるのだが、やらねばなるまいというのが、執行部や私の心情だった。国民的大行事といわれる大晦日の紅白歌合戦をボイコットするというのは、大変なことだった。しかし、当事者が決意するなら、他のフルバンドもフリーのミュージシャンも、決してスト破りをしないだろうという確信はもてた。結成当時の日演協は、そう言える組織力をもっていたのだ。
 この年の出演バンドは小野満とスイングビーバーズ、ダン池田とニューブリードだった。小野さんは、バンドリーダーズ支部の初代委員長だったし、情熱にもえていた。ダン池田さんは、当然のことと静かにしかし固い決意を示していた。
 金額についての要求は、十二月十一日に提出、回答はゼロ回答からはじまったが、二十日をすぎてNHKもようやく事態の重大さをさとったようだった。
 二十六日と二十七日に連続して交渉がおこなわれ、二十七日には途中三回の休憩をはさんで、千円、千五百円を回答させ、第三次回答としてようやく、交渉団としてはもちかえれる回答――二千円、六六七%アッブ――を得て、二十七日の緊急中央委員会で受諾と、スト体制解除を決議した。
 このとき、夜九時からの緊急中央委員会には、実に四十名の中央委員と二十名の執行委員が集まって、白熱の討論を交わした末、妥結をきめたのだった。
 ユニオン側の交渉団は、委員長の浜坂さん、副委員長でNHK対策委員会責任者の宇野さん、そして執行委員で渉外担当の小笠原荘介(弾き語りの原荘介)さんと私だった。NHKは黒川著作権部長、白川部主管、国香副部長という人々が交渉相手であった。
「薄謝協会」からの脱皮

 この出演料改定は、日本薄謝協会といわれたNHKの出演料体系全体を押しあげる役割りをはたし、プロフェッショナルとしての音楽人はじめ芸能実演家に対するNHKの態度をも正すキッカケになった。
 NHKの対応も真剣かつ誠実だったが、長い目でみれば、NHKのためにもなったものと信じている。

〈連載13〉  

芸団協に入る
 日演協は結成大会から数ヶ月後、芸団協(社団法人日本芸能実演家団体協議会)に加盟した。日音労も、その一年後に芸団協のメンバーになった。日演協、日音労とも加盟に時間がかかったのは、他の芸能分野に労働組合がなく、社団法人である芸団協やその構成団体の運営や活動のスタイルに、いささかの違和感を持っていたからだった。両組織ともまだ結成直後で、いわば若かったのだ。
 しかし芸団協には当時から、日本の芸能各界の主要な組織がほとんど加盟していたし、二次使用料はじめ実演家、とくに音楽家と関係の深い権利処理と権利確立の運動を行なっていた。また社団法人にもかかわらず、「芸能実演家の活動条件の改善を行うことによってその地位の向上を図り、もってわが国文化の発展に寄与することを目的とする」と、定款の冒頭にかかげている団体だった。
 この文言は、公益法人としては異例なものであり、監督官庁の文部省から当然クレームがついたが、初代専務理事の故久松保夫氏が、筋道だった説明を毅然としておこない、認めさせたものだという。
 おもえば、活動条件の向上によって文化の発展に寄与する、というのは音楽ユニオン運動の根本理念であって、芸団協はその設立の志において、ユニオンと全く共通する点をもっている組織だったのだ。にもかかわらず、長い伝統を持つ日本の芸能界が当然身につけている日本社会の「古さ」を、その芸能界を基盤にしている以上、これも当然のこととして芸団協が反映している点について、故ない反撥があった。これはもしかすると、今日の音楽ユニオンまでいくらか続いている傾向かもしれない。後に述べることだが、「音楽連合」の構想が実らなかった点にも、私たちの中にあった、必要な回を嫌う傾向が一因であったと認めるべきだろう。
 いずれにしても、かなり長時間に及んだ日演協と芸団協の役員どうしの会談で、腹蔵ない意見交換をし、とくに久松専務理事がもつ、実演家の権利を擁護する意志の明確さに触れて、日演協は加盟を決めた。
FIMとMEI

 日演協は、設立大会でFIM(国際音楽家連盟)に加入することを決めた。FIMについては、日演協会員でハープ支部委員長のヨセフモルナールさんがオーストリアにいるときから、その傘下のユニオンに入っていたので、熱心にすすめられた。日演協結成直後にそのFIMの書記長ルドルフロイツィンガー氏が来日、そのいかにも音楽家らしい当時スイスのトンハーレオーケストラのソロファゴット奏者、柔らかで暖かい感性とともに、明解な理論と断固たる判断を併せもつ、まさに音楽家の組織指導者にふさわしい人物で、面談した日演協の役員をすっかり魅了した。そのすぐあとFIMの大会がロンドンで行われ、浜坂委員長と、当時ドイツのウルム市のオケにいた近藤寿行さん(Fg)が代議員で、また当時たまたま西ドイツに用事で行くことになっていた田中雅彦さん(CB、N響)が通訳で出席し、交渉した。
 MEI(国際マスコミ芸能労連)は、当時ISETUという名称だったが、そのアジア太平洋会議に福本委員長と田副委員長が招待されたのがキッカケで、日音労が加盟した。当時は、アメリカ、オーストラリア及びアジアの音楽家ユニオンは、こちらに組織されていた。FIMはヨーロッパ勢がほとんど。
MICにも

 日演協は、現在のMIC(日本マスコミ文化情報労組会議、当時はマスコミ共闘)にオブザーバー加盟することを結成大会で決め、一年後に正式加盟に切り替えた。当時この組織は、新聞労連、全印総連、日放労(NHK労組)、民放労連、出版労連、映演共闘、広告労協で構成されていた。
 この連載の冒頭に書いたように、オケ労組と民放労連の関係は深かったし、放送や映画は、音楽人の仕事の場として、現在よりはるかに大きな比重を占めていたから、おつきあいは当然だったが、「労組」というものに不安を感じていた日演協は、オブザーバー加盟とした。しかし、一年間の体験で、いっそ正式に入ろうということになった。
 実は、芸団協といい、MICといい、私は入るべきだと最初から考えていたが、音楽人の自主的判断に待つべきだと考え、強く主張することはあえてしなかった。この点、国際組織への加入には何の違和感もなく、執行部全員が積極的だった。音楽人同士ということと、音楽それ自体の国際性の反映だろう。
 こうして、芸能マスコミ関連の国内組織、そして音楽関連の国際組織という、今日に引き継がれている関連外部団体との関係も確立され、二つの音楽家のユニオンは、いわば一人前の組織体となったといえよう。

 〈連載15〉  


日本フィルの市民オーケストラ運動

 一九七二年、闘争に入った日本フィルハーモニー交響楽団では、今まで財団事務局がやっていた企画、製作、宣伝、営業、管理などの仕事をすべて楽員=労組がやらなければならない。それは、普通の意味の労働組合活動をはるかに超えることだった。また、一人一人の楽員が、単に演奏者として与えられた仕事をこなすという通常の義務の範囲をこえ、音楽活動それ自体の社会的意義を考えなければならないことを意味していた。音楽が人間とその社会に何故必要なのかということを、常に常識的に問いなおし、市民聴衆に説明することを迫られたのだ。
 そうしなければ、新たに聴衆を獲得することができず、オーケストラを存続させることができなかった。そしてオーケストラを存続させることが闘争の真の目的であったが、また逆に、フジテレビ、文化放送の責任を問う闘争を続けるための最高、最大の手段でもあった。
 こうして、日本フィルの「市民オーケストラ運動」とのちに定式化される、楽員たちの積極的な働きかけによる聴衆づくりの活動がはじまった。
 闘争の方は、民放労連(日本民間放送労働組合連合会)はじめマスコミやその他の労働組合が支援共闘会議を作って日演協だけではとても間にあわない応援、指導の任にあたってくれた。
 一方、オーケストラ活動のためには、これは今日まで続いている日本フィルハーモニー協会が、日本フィルを育てる市民運動として組織された。闘争突入後十カ月、一九七三(昭和四八)年四月に設立記念総会がおこなわれた。
 発足当初の代表幹事には、音楽界から、指揮者の近衛秀麿、作曲家の團伊玖磨、芥川也寸志、いずみたく、歌手の淡谷のり子、演劇界から、千田是也、杉村春子、作家の松本清張の各氏らが就任した。マスコミ大企業と闘争中の、行方もわからぬオーケストラの支援活動に、これほどの人々が名を並べたことからも、音楽人や市民が草の根からオーケストラ活動をはじめる運動への期待と、苦境におかれてなお生き抜こうとする日本フィル楽員たちへの同情の大きさが感じられる。
ユニオンの運動として
 もともと音楽人たちの組織なのだから、労働組合らしさなどにこだわらず、普通の興行ではおこなえないような演奏の場を作ろうという意欲はあった。
 まだ準備段階の一九七三年、発足したばかりのギター協会は、ギター・フェスティバルを開催した。またユニオン日演協結成後一年半ほどたった一九七四年五月には、日演協ミニフェスティバルがおこなわれた。これらは参加人員や、多様性という意味で、まさに、ユニオンができなければおこなえないような音楽会だった。ギター・フェスはガット六〇人や、アンプ百台という凄まじさ。ミニの方は、フルートアンサンブルや弦楽四重奏にコーラスというクラシック系と、デキシーやフルバンドのポップス系、最後は出演者全員で大編成のジャズオーケストラが演奏するなど総勢九四名というにぎやかさ、ミニといったのは、次にもっと大きなフェスティバルをやるという意味だった。これらの活動のうえに日本フィルの市民オケ運動の影響もあって、一九七五年の八月には、最初の日演協音楽研究集会が開催された。三善晃氏の基調講演や、三つの分科会で「演奏集団と聴衆」というメインテーマのもと日曜日の正午から夜の九時まで、実に一二〇名の音楽人たちが参加して、熱心に論議した。
 第二回は翌七六年の八月、テーマは前年とすこしだけ変えて「演奏家と聴衆」だったが、時間が足りなかったということでなんと午前十時半から夜九時まで、昼夕二食を用意しての長丁場にもかかわらず、やはり一〇〇名をこす音楽人たちが集まった。講師はわらび座の原太郎、作曲家の船村徹、小倉朗、評論家の本多俊夫、小宮多美江、関谷邦夫の各氏ら、多彩な顔ぶれだった。
 第三回は一年おいて七八年八月に、『生演奏の場をひろげよう“カラオケ文化”をのりこえて』がメインテーマだった。この集会はその後、音楽ユニオンが誕生する直前の第六回まで続けられていった。

〈連載20〉  


音楽議員連盟
 今日まで活動を続けている超党派の国会議員による音楽議員連盟は、一九七七(昭五二)年に結成された。初代会長は前尾繁三郎、事務局長は青木正久の両自民党代議士(当時)。副会長には当時の野党の社会党新自由クラブ民社党共産党から衆参どちらかの議員が名を連ねた。
 この議員連盟は、著作隣接権の確立をはじめ、入場税撤廃や外来演奏家対策などの課題に取り組むことからその活動をはじめた。
 音楽ユニオン発足までの時期でいえば、なんといっても、貸レコード法の制定をはじめとする著作隣接権の課題が大きかった。貸レコードの歌手演奏家分使用料は、年間二四億円に達しているが、これは青木代議士を中心とする超党派の音議連加盟議員たちの奮闘で、なんと議員立法から、つまり、嫌がる文部省文化庁の抵抗をおしきって、はじまったことだった。
 積年の課題であった入場税も課税範囲をせばめながら、撤廃の方向へもっていった。若い音楽人たちは入場税といっても知らないかもしれない。今の消費税みたいに、音楽その他の興行で一定の金額をこえる入場料については、最低の率でも一〇%の税金をのせて、興行主体が強制的に徴収、納入させられたのだ。
 だから、日本フィルをはじめ、自主公演の多いオケなどは経営は赤字でも多額納税者だった。そのうえ、公的助成金はほんのわずかで納税額の何分の一かだったから、政府が音楽家を助成しているのではなく音楽家が政府を助成しているのが日本の文化の実態だった。
 また、外来演奏家に対しても、最低保障収入を定め、地元国からの職業人としての資格証明やら継続滞在日数、招聘業者の資格などさまざまな規則を厳格にして野放し状態を改善した。
 日本の各種議員連盟の中でも、最も活発といわれるこれらの音楽議員連盟の活動は、二代目で今日まで会長を続けておられる櫻内義雄先生(自)はじめ各党の歴代の副会長、とくに小林進(社)、田川誠一(新自ク)市川正一(共)(いずれも当時)の諸先生の御協力による。
 しかしとくに政界を引退されても一貫して事務局長として音楽議員連盟の運営を支えて来られた青木正久先生の、一途に音楽と音楽人の未来のために課題を追求しつづけられた姿勢に負うところが多い。
 また、議連を支える世話役の要の役割を果たしつづけ、むづかしい政界のなかで音楽文化愛好の一点でまとまりをつくりあげていった萩原道彦東京新聞論説委員(現音楽ユニオン特別顧問)の舵さばきも見事だった。
 さらに、萩原さんとともに事務局の任にあたった故西宮安三郎さん日本演奏連盟事務局長―当時)のお人柄にも敬意を表さねばなるまい。
音楽連合

 芸団協は、当初から芸能人の連合=ユニオンの結成を推進する方針をもっていた。これは、芸団協がその定款で、芸能活動の推進と実演家の活動条件の維持、向上を二つの主要な目標としたのに対応したものだ。活動条件の維持向上のためには将来芸団協の外に、個人加盟の「連合」を音楽、俳優、舞踊、演芸の四ジャンルに確立し、その四つの連合をまとめる「総連合」をつくる、その運動をさしあたって芸団協自体が推進するということだった。
 初代専務理事だった故久松保夫さんと、組織担当の常務理事だった倉林誠一郎さんという、二人の演劇人の先見の明による方針だった。
 俳優、演芸、舞踊の三ジャンルでは、それぞれの「連合」ができていて、残るは音楽分野のみとなって芸団協加盟洋楽団体の話し合いがはじまったのが一九七八(昭五三)年のはじめからだった。しかし話し合いは難航した。
 日音労と日演協は、芸団協が示している本来の「連合」すなわち個人加盟の組織である「ユニオン」をめざした。しかし、社団法人である洋楽関係文化団体は、先行している、俳優、舞踊、演芸の三連合のような、既存の団体が集まるゆるい協議体を求めた。
 この話し合いは丸一年ほど続けられたが、とうとう一致した結論に達せず、打ち切られてしまった。この間には音楽労協も結成され、その内部でも論議を重ね、「音楽連合」への意思統一がなされていったが、音楽文化団体とはそもそも団体の性格がちがうので、無理な話だということも理解せざるをえなかった。

〈連載23〉


日本フィル闘争の勝利
 日本音楽家ユニオンが結成されて、すぐ、大輪の花束のような祝福が訪れた。日本フィル闘争の勝利である。(昭五九)
 結成大会から半年も経たない、一九八四年三月十六日、東京地方裁判所で日本フィル労組とフジテレビ、文化放送が裁判所の和解案を受諾、実に十二年に及ぶ闘争に幕をおろすことが出来た。
 日本音楽史上最大ともいうべきこの闘争、おそらく今後もこれほどの事件は滅多に起こらないであろうと思われる闘いは、一九七二年六月、楽団の立者でスポンサーのフジテレビ、文化放送が、十六年の歴史を持つ日本フィルハーモニー交響楽団の解散と楽員全員の解雇を断行したことから始まった。
 まだ、ユニオン日演協の結成まで、単独の労組だった日本フィルハーモニー交響楽団労働組合は、ただちにフジテレビ構内アーケードビルの楽員控室を占拠し、不当な解雇として東京地方裁判所に提訴するなど、闘争に起ち上がった。
 始まったばかりの音楽家のユニオン運動の将来にとって、その勝ち負けは大きな影響を持つ闘争だということは肌でわかったから、音楽人たちは真剣に支援に立ち上がった。
 同じような立場にあるシンフォニーオーケストラの楽員たち、特に日本フィルと同じ立場であるスポンサードのオケですでに組合を作っていた、N響、読響、都響、京響のメンバーたちは、それこそ明日は我が身のこととして受け止めた。カンパを集め連帯スト権もたてた後に組織に加盟した、自主運営的オケも、地方のオケも、ユニオンメンバーとして、さまざまな形で日本フィル闘争を支援し、参加する。
 スタジオミュージシャンやジャズミュージシャンたちも、フジテレビ構内の集会やそこでの演奏に参加したり、デモの隊列に加わり、トラックの上でデキシイを演奏したりした。当時は別組織だった日演協のミュージシャンも、節々の集会やデモに大量に参加し、カンパも集めた。
 音楽人以外でも、相手のフジテレビ、文化放送の組合をはじめ、民放労連やMICのマスコミ関係労組、さらに地域のたくさんの組合が、応援した。
 しかし、練習所の占拠や裁判提訴や音楽人はじめ多くの労組の支援も、それぞれ有効ではあったが、それだけでこの闘争の勝利を勝ち取ることはできなかった。
市民オーケストラ運動
 この連載でまえにも触れたことがあるが、スポンサーから見捨てられて、当然その負担金、――当時で年一億円ほど――と事務局など運営機構もそっくり失った日本フィルは、オーケストラの運営一切を楽員の手で行わなければならなかった。そして、オーケストラの活動をどんなに困難な争議のもとでも続け、日本フィルの灯を消させないというのが、この闘争の基本的な目的だった。
 日本フィルの楽員たちは、労働組合の助けも借りて、地域の労組の職場へ行った。また、日本フィルを支える音楽愛好家たちを頼って、市民の中に入っていった。日本フィルの楽員たちは、さまざまな集まりで演奏し、オケのコンサートへの参加を訴え、またコンサート自体を一緒に開催する働きかけもした。
 こうして、日本フィルは、日本のオケの中では、きわめて手打ちのコンサートが多く、聴衆の比率も高いオケになっていった。このような市民オーケストラ運動の成功、つまり聴衆との結びつきの強さは、副次的な効果も、もたらした。すなわち、なんと闘争中から単発や小口の冠ではあっても、一流企業を含めてスポンサーがついた。
武道館での大音楽会

 この活動の頂点が、一九八一年六月三日、五〇〇人のオケ、一,〇〇〇人の合唱団、一万五,〇〇〇人の聴衆による、日本フィル再建を目指す大音楽会だった。この音楽会の成功のために、日本フィルの楽員たちは、二人一組になって都内二十三区と三多摩の各市を担当、徹底して職場や地域に入り込んだ。その結果当日の一週間以上前にチケットは全部売り切れ、当日はダフ屋まで出た。
 一方、五〇〇人のオーケストラメンバーを、二日間――前日もリハーサルを行うため武道館を押さえた――拘束する事がどんなに難しいか、ということは音楽人ならすぐわかる。
 しかも、ギャラというにはほど遠い。行動費での出演依頼だった。これを可能にしたのは、東京の五つのオケのユニオンメンバー及びフリーの音楽人の献身的な協力による。この演奏会の様子は、当事者のフジテレビを除くすべてのテレビ局がメインのニュースで、かなり長く放送したし、主要な新聞もみな写真つきで大きく報じた。


 〈連載24〉


 自主運営オケの道
 一九八一(昭五六)年六月三日の武道館コンサートの三週間後、東京地方裁判所は、職権をもってフジテレビ、文化放送と日本フィル労組に対して和解を勧告。交渉は延々と続いたが、音楽ユニオン誕生の翌年、一九八四年三月に闘争は終結した。
 フジテレビ側は二億四千万ほどの解決金を払った。この金で、日本フィルは財団再建に必要な基本財産をまかない、闘争資金を返済し、楽員にもいくばくかの一時金を分配して、闘争と演奏を両立させた厳しい生活に一区切りつけることができた。
 しかし、楽団の経営状態や、楽員の生活保証は依然として厳しいと予想された。にもかかわらず雇用にこだわらず闘争を終了することができたのは、闘争にはケリをつけて、自主運営でもオケを続けていけるという自信ができたからだった。
 その自信は、武道館大コンサートを頂点とする、闘争とオケ活動を持続するための市民オーケストラ運動から生まれた。このコンサートの成功のために、日本フィルの楽員たちは二人一組で東京都下の各区や周辺の市を担当し、それまでの運動をさらに一廻り越えた、地域の労働者や市民との結びつきをつくり得たのだった。その力が一万五千の客席を満杯にした。この人々と一緒に進めば、やっていけるだろう。ともかく闘争中も結局自主運営で生き延びてきたのだ。闘争には終止符をうち、自主運営で生き抜いていこう。その方がオーケストラの生き方としては、まっとうなのではないかという考えを、楽員全体のものにする事が出来た。
 闘争の中でつくりだされた聴衆、市民との結びつきは、日本フィルハーモニー協会という聴衆組織として終結後も存続し、今日に至るまで各地に支部もあって、室内楽の演奏会や日本フィルの映画の上映会など多彩な活動を行っている。
オーケストラ助成の充実
 実際に自主再建、自主運営の道を選んだ日本フィルを支えたのは、主催演奏会の収入増だけではない。その集客力、或いは大衆の支持の厚さは、闘争中でさえスポンサーを獲得できたのだから、争議が終わって、普通のオケになった日本フィルには、他のオケと較べても群をぬくスポンサーがついた。そのうえ、国の助成金までが増えだした。
 そもそも、国がオーケストラその他芸術造団体に助成金を出すこと自体、日本フィルの闘争と深い関わりがあった。
 一九七三年迄、国が助成したのは、音楽教室活動が評価された群響の数百万円を先頭に、いくつかの地方オーケストラに限られていた。まさに文部省らしい発想で、教育は支援するが芸術、芸能などというものは、余裕のあるものが好きでやれ、という感じだった。
 ところが、日本フィルの財団解散、楽員全員解雇という事件に遭遇してさすがの文化小国日本の政府も、急遽在京オケ助成金を設した。金額は総額でわずか六千万円、しかも肝心の日本フィルは、抗争中ということで対象にならなかった。
 その後、十年近くたった武道館大音楽会の年からようやく日本フィルにも助成されるようになったが、金額は年額一千万円、他の在京オケの半分だった。
 しかし、いったん筋道がつけられた芸術団体への助成は、だんだん増額していった。特にオーケストラ関係は、ユニオンの活動もあり、日本フィルをはじめ各オケの奮闘によって、着実に伸びてきた。
 一九九六年度からはじまった芸術造特別支援事業という制度では、長期的に重点的な支援――各オケ年間約一億円――を行うもので、最初に選ばれたのが、東京フィル、東京響、そして日本フィルの三楽団だった。その日本フィルについての選考理由はこう述べている。
――ファンとも一体となった堅実な楽団運営によって、着実にその実力を向上させてきた。また、団員による室内楽コンサートを数多く開催するなど、アンサンブルの向上と新たな聴衆層獲得への努力は特筆すべきものがある。――つまり日本フィルが闘争中につくりあげ今日まで引き続いている、市民オーケストラ運動が国によって評価されたといえるだろう。
 最後にもう一つ、誰も予想しなかったフジテレビへの出演が実現した。つい二年程前、実にフジテレビによって解散させられフジのチャンネルから追放されてから二十五年ぶりに、ドラマ番組にレギュラー的に出演した。その後も一度出て、次の予定もあるそうだ。市民オーケストラ運動は、労働者だけでなく、政府や財界、マスコミの中にも市民権を確立したのだ。

〈連載27〉


反核・日本の音楽家たちの誕生
 音楽ユニオンが結成される前の年、一九八二(昭五七)年三月に、反核・日本の音楽家たちが、産声をあげた。
 その一ヶ月ほど前に、文学者たちが反核兵器の声明を発表して大きな話題となった。しかし音楽家たちは、文学者の動きに触発されて動き出したわけではない。実は、もうその半年ほど前、前年の秋には準備を始めていたのだ。
 なぜ一九八〇年代に入ってから、つまり広島、長崎に原子爆弾が投下されて、地獄絵さながらの惨状が現実に地球の上で出現してから三五年もたってから、急に反核兵器の動きがでてきたのだろうか。
 それは、直接にはヨーロッパの市民、とりわけ音楽家や文学者や俳優たちの真剣な運動に刺激され、本来日本の人々が世界に先がけて起ち上がるべきということに気づいたからだ。ではなぜ、ヨーロッパで、そのときに。それは中距離核兵器の配備が西欧で行われたからだ。つまりそれまでは、核戦争がもし起こったとしても、それは大陸間弾道弾によるアメリカとソ連の間のことと思われてきた。それがにわかに、米ソ間の直接攻撃はいかにも世界の約二%だから、東欧と西欧の間で小手調べ、と取られかねないような事態になってしまった。
 これは他人事ではない、という恐怖がヨーロッパの知識人たちを脅かしたのだ。しかしその反響は、ヨーロッパ中に広がっただけでなく、日本に、そしてアメリカにも大きな衝撃を与えた。折しもヨーロッパでその空気に触れてきた音楽センターの人が、外山雄三さんと話し合い、また相談を持ちかけられた。現在のMIC(日本マスコミ文化情報労組会議)から当時の日演協に話があった。外山さんの御意見で、作曲家協議会の委員長でジャスラックの委員長だった芥川也寸志さんを中心にして、大きく音楽界をまとめるべきだということになり、芥川さんも快く受けられてそれ以降反核の運動は芥川さんを中心に廻り始めた。
ユニオンのスタンス
 日演協そしてこれを引き継いだユニオンのスタンスは、事務局の構成団体となって、側面から援助しようということで、今日までやってきている。
 平和を求め、核兵器を一掃しようという目標は、圧倒的多数の音楽家の願いと一致するだろう。またその柱をたてることで、音楽家たちが団結して今まで現出しなかったような音楽会がつくられるならば、それは新たな聴衆を拡大し、音楽を振興しようというユニオンの基本方針に合致する。
 しかし、そのようにユニオンの求めるものと矛盾せず、共通するところはあるけれども、ユニオンの本来の運動それ自体ではなかろう。だから、あくまで側面からの援助であって、ユニオンが背負ってやっていくことではない。
 これがユニオンのスタンスだ。だから反核日本の音楽家たちの財政は完全に独立していて、ユニオンが負担したりはしていない。結成直後の八二年六月に、折しも国連の第二回軍縮総会が開催されるのを機に、ニューヨークのセントラル・パークで百万人の反核平和集会が行われ、また反核の音楽会も何カ所もで開かれたが、これにはユニオン・メンバーも十二人参加した。その費用もすべて日演協、日音労両組織をはじめ、芸団協やその構成団体、また参加者にそれぞれのつながりで聴衆、市民から寄せられたカンパでまかなわれた。
予期せぬ果実
 「反核・日本の音楽家たち」の中心になったのは、前述の芥川さんを筆頭に、作曲家では池辺晋一郎、石井眞木、いずみたく、武満徹、寺原伸夫、林光、中田喜直、指揮者で岩城宏之、外山雄三、山田一雄、演奏家は小原安正、小室等、千葉馨、ディックミネ、評論家の秋山邦晴、大木正興、野口久光、湯川れい子、といった多士彩々たる顔ぶれだった。もう亡くなった人も多い。芥川さん、いずみたくさん、武満さん、寺原さん、山田さん、小原さん、ミネさん、秋山さん、大木さんがそう。
 一方、音楽ユニオンと関係のある人も多い。音楽ユニオン結成の賛同者となり、会員であり、また特別顧問であったり、ユニオンとの関わりのある運動に積極的に参加されたり…。実はそのほとんどが、この「反核・日本の音楽家たち」の活動を通じてユニオンと具体的に触れたのがきっかけだった。つまりユニオンはそれまであまり付き合いのなかった作曲家、指揮者、ソリスト、評論家の方々にそのウイングを伸ばしたといってよいだろう。そのことによってユニオンはさらに社会的認知を得、心理的な抵抗を減じ、本当はない筈だが、どうしても感じられてしまう垣根を低くすることができたのだった。これはその後六千人に達するユニオンをつくりあげる上で大きな役割を果たした。反核の運動に側面からでも加わることで、ユニオンは当初予期しなかった大きな贈物をもらったことになる。

〈連載31〉


変わる仕事場

 音楽をめぐる環境はすっかり変わってしまっていた。
 クラブ、キャバレーの専属バンドの減少から消滅にいたり、この種の営業自体が衰退してしまった。
 フリーバンドも恒常的に楽員を雇用するものはほとんどなくなった。カラオケの普及は、追い打ちをかけるように、バー・クラブ・スナック等のソロの職場を消滅させていった。スタジオの仕事も映画を先頭に減少していったし、また世代交替がもともと激しい職域分野だったが、それに拍車がかかった。
 一方、楽器研修やアマチュアバンド、オケなどへの教授業が増加し、また結婚式場やパーティーでの生音楽の需要もふえ、地方自治体主導のオーケストラ設立も、いくつかの都市で行なわれた。
 全体として、シンフォニーオケを除けば、音楽人の仕事はフリー化し、多様化していったのだ。ユニオンがそこから発生する会員たちの多様な要求にどうこたえられるか、が問われていたのだ。
 組織財政特別委員会の対応は、支部編成の新しい原理を探ることから始まった。しかしそれは前号で述べたように、楽器、居住地、仕事地域、職能ジャンル、所属楽団、どれをとってもうまく当てはまる方式はなかった。もしかすると、それぞれの音楽人をどこかの固定した支部に押し込めようというのがそもそも間違いなのではないか、ということに、ようやく気がついてきた。
ピラミッドからネットワークへ

 今迄の組織原理はピラミッド型だった。誰でも一般に組織というとこれを考える。中央集権型或いはタテ型だった。これは軍隊式で強力だ。しかし会員を型にはめ、しばりつける。会員は、自分の所属する下部組織の外へ出られない。上部組織に対する彼の声は、必ず下部組織を通じなければ、発せられない。会員はあくまで○○支部の誰々なのだ。
 一方、ネットワーク型は反対だ。中央集権型ではなくて、自由分散型或いはヨコ型といってもよい。その名の表すとおり網のように、四方八方とつながる。会員は、特定の下部組織に縛られない。所属しない。単につながる。自分の好むルーズな、いくつかの組織に連なる。ユニオン、地本に対する意見は、下部組織というか、グループを通さなくて良い。ある面ではグループで相談せねばならないが、別の面では別のグループと相談する。多様なニーズに応じて、多様なグループとつながり、相談することが出来る。
二十一世紀型の組織
 このような組織の改変は、音楽人を取り巻く環境と、仕事の変化を議論した中から生まれたものだが、実はこれが、新しい情報技術革命の時代に求められる組織論と合致していたのだ。
 コンピューターによる人々のつながりを考えれば、それは明らかだ。会社や役所というものも軍隊に似ていて、局―部―課―班(又は係)というように中央集権、上下関係、所属下部組織の枠が絶対的なところだ。ある課に属する社員の意見やアイデアは、その課の課長を経由しなければ、同じ局はもちろん、同じ部の中へも流通しない。
 こういう硬直した組織ではどうにもならない、というのが、組織の活性化を考えている人達の共通の認識になっていったのが、一九九〇年代だった。
 これは、しかし、組織図や規約を変えたり、或いはコンピューターという道具を持ち込むだけで達成されるわけではない。権威によりかかり、「従来の慣習」に従い、若い人や女性たちの発言を押さえるのではなく、新しい人達の発想や才能を大胆に発揮させるように幹部が変わらなければだめだ。
 ユニオンでも、これから工夫し、努力するところがたくさん残っている。職場的グループは形成されつつあるが、それがまた昔の硬い「支部」と同じものになっては意味がない。また、職能的つまり楽器を基本にしたグループやジャンルの集い――ラテンとか、タンゴとか、古楽器アンサンブルとか、フォークとか、ロックとか――もあまり見えてこない。根気よくじっくりやってゆくことが必要なのだろう。ネットワーク組織の基本を間違えないことが何よりも大事だと思う。

〈連載33〉   


オーケストラの連帯

 オーケストラ・プレイヤーの賃金、待遇は、他の誰でもない、日本のオーケストラ、とくに同じ地域にあるオーケストラの状態が良くならなければ、とても抜本的な改善は望めない。これが、日本フィルの闘争を支援し、大阪フィルのユニオン化を喜び、なによりも直接的に必要があるのかとも思われていた音楽ユニオン加盟を、率先して自ら行なった、ユニオン京響の指導的な理念だったろう。
 京響の楽員は、京都市の直雇の労働者だから、市職員の賃金表が適用される。だから、彼らもその一員である市職員組合の賃上げ闘争によって、彼らの賃金は改善される。ならば、賃金改善というユニオン運動の第一目的にとっては、ユニオンもオケ協もいらないではないか、というのが普通の見方だ。
 しかし、現業職員の賃金体系では、とてもオーケストラ・プレイヤーにふさわしい賃金ということにはならない。現に、古くから完全スポンサードのN響、都響、読響と京響の賃金を較べれば、京響が相対的に低い。それは、日本全体で見ると、まだ京響より低い賃金水準のオケが沢山あり、さらに関西だけとると、それでも京響がトップの水準だからだ。
 京都市職員の賃金表をよく見ると、現業及び一般職員用のもの以外に、医者の賃金表がある。市立病院があったりして、市に雇われている医者がいて、この賃金は一般職員よりもはるかに高い。京都に限らず、どこの自治体でもそうだ。それはほかでもない、世間一般の医者が高賃金だからだ。
 そもそも国や自治体、つまり公務員及びそれに準ずる労働者の賃金は、民間準拠というのが大原則だ。毎年の賃上げも、民間の賃上げ水準を集計し、それと比較して、人事院勧告が出されて決まる。したがって、民間オーケストラの賃金水準が低い限り、市の丸抱えでも、一般職員なみというのがオケプレイヤーの上限になってしまう。
 これは公務員の賃金を決めるシステムだが、その根底には、そもそも経済法則として、同種、同水準の労働者の賃金は同一になるし、そうすべきだという認識がある。だからこの辺の法則は、公務員関係に限らない。
巨人かヴェルディか

 読響のスポンサーは、読売新聞とその系列の日本テレビ、読売テレビだ。系列企業にはそのほか、野球の巨人やサッカーのヴェルディ川崎などがある。読響の賃金は、読売新聞社員の少し下あたりにある様だ。スポンサーの企業だから当然なのだろうか。しかし、同じ系列でも、そして同じマスコミでも日本テレビや讀賣テレビの賃金水準は読売本社よりも良い。そして巨人やヴェルディになれば、もう比較をこえている。なぜか。
 当然のことだが、テレビの賃金は同業他社、TBSやABCなど在京、在阪のテレビの賃金との関係できまる。ジャイアンツはプロ野球の、ヴェルディはサッカーの賃金相場と見合ったものになる。読売新聞との関係で決まるわけではない。読響の賃金水準が、読売新聞の少し下にあるのも、読売がスポンサーだからというよりも、N響や都響の水準及び、はるかに低い自主運営的在京オケの賃金と見較べているからにすぎない。
血は水よりも濃い

 オケのユニオンが、関連する自治体やマスコミの労組の協議体に入るなど、さまざまな形で交流を深めるのは、非常に結構なことだ。視野も広がるし、日本フィルの闘争の時のように、困ったときには、親身になって支援もしてもらえるかもしれない。
 しかし、そのことでオケ楽員の賃金や社会的地位が目立って向上したり、或いは楽団の運営が楽になったりすることは、まずないと思わねばなるまい。
 なによりも、地域の、そして日本中のオーケストラの運営と賃金水準を改善しなければならない。だから公的助成を増額して、自主オケの運営をすこしでも楽にすることは、自主オケだけでなく、スポンサードのオケの楽員にとっても緊急に必要なことなのだ。
 まず自分たち自身が努力し、地域や全国のオーケストラに影響を与え、共通の運動が高まり拡がって市民の支持を得ることによってだけ、オーケストラと、したがってプレイヤーの未来は切り開かれるだろう。それはもう二十五年にもなろうとするオケ協の運動が如実に示していると思う。また、オケ運動でもユニオン運動でも先輩の、ヨーロッパ各国の歩みを見ても疑問の余地なく明らかだ。そしてユニオン京響の先見性のある決断もそこに根ざしている。オケはオケ同士、そしてさらに音楽家は音楽家同士の連帯した運動が、一番大切なのではないか。  

佐藤一晴 追悼・遺稿集刊行委員会編「一晴の夢、歩んだ世界」(2002年11月16日発行)所収
初出:日本音楽家ユニオン機関誌『音楽人通信』1997年5月号~2000年10月号