もしかすると、と甘い期待を抱いていたのだが、この国の行政と司法に望みを託してはならない、という苦い教訓が再確認されただけだった。前ページで紹介されている、カメラマン故瀬川さんの労働災害遺族補償請求を却下した、東京地裁判決のことだ。
労働者とは奴隷のこと。行政官庁も、これから独立しているはずの裁判所も、却下の理由としたのはただ一つ、瀬川さんは労働基準法でいう労働者ではないから、労災保険は適用されない、というだけだ。
――では、労働者とは、どんな人のことなのですか。 と労働省に申し入れに行った支援する会の人が尋ねると、ピカピカのキャリア官僚は言下にこう答えたという。
――奴隷のことです。なるほど、カメラマンは奴隷ではない、造的表現者だ。しかし、働かなければ生きていけず、収入や生活の水準も、失礼ながら賃金奴隷ともいわれる一般的サラリーマンとそう違わない。いや、生涯賃金ではそれ以下だろう。しかし、一方こうのたまわった、末は局長、次官候補の幹部官僚は、まぎれもない労基法上の労働者なのだ。賃金もカメラマンより良いだろうし、お仕事も奴隷労働とは言えないだろうに。ついでに言えば、最も奴隷らしくないと思われる大学教授も、なぜか立派な労基法上の労働者とされている。
労基署も東京地裁も、労基法上の労働者と認定するために、ほぼ共通して九つほどの条件をあげている。これは法律で定められているものではなく、労働大臣の私的諮問機関の答申に準拠したものだ。法律上は単に「事業又は事務所に使用される者」で、賃金を支払われる者」と規定しているにすぎない。これを普通に読めば、瀬川さんは当然労働者になると思うのが、常識的理解ではないだろうか。ところがそうはならない。この条文をねじ曲げるように、上述の九ヵ条をひねくり廻すからだ。この九ヵ条(前ページ参照
※)は、ひと言でいえば、全く当然だがそれだけにどうにでもねじ曲げた解釈を可能にするものと、労働者性を認定するために必要とは思えないものとから出来ている。
例えば、仕事の時間と場所が拘束されていれば労働者だ、とする。そのうえ、瀬川さんは自己の裁量ではなく、決められた撮影の時間場所で仕事をしたと認定する。全くそのとおり。しからば労働者だと認定するのだなと思えば、これが違う。なんと、この拘束は映画製作という業務の性格からきているのであって、使用者に従属していることの証明にはならない、つまり瀬川さんの労働者性を認める根拠にはならない、と結論するのだ。
また別の条件、すなわち業務遂行上で指揮監督関係の下にあるか、という点に関しては、当然映画監督の全体的総合的意図の下で仕事をするのだから、一定の制約のもとにあるのだが、高度な専門技術をそれぞれの職能によって発揮して作品ができるのだから、単純な指揮命令下で働くわけではない、と言う。それもそうだな、と思えるのだが、だからカメラマンは労働者でないと言われると、それでは映画の製作現場で労働者と言われるべき人は、おそらくアルバイト的な、素人に近い助手しかいないことになる。
ところが、日本のお役所は、アルバイト的な助手も排除する基準をちゃんと用意している。九カ条の中には、製作プロに専属性があるとか、就業規則が適用されているとか、賃金台帳にのっているか、というのもあるのだ。もちろん瀬川さんも、当然この条件にも引っかかり、労働者性がないことがいよいよ明確だ、と断罪されることになる。かくて現在の撮影現場から労働者は一人もいなくなる。こう見てくると、瀬川さんが労働者とされなかった本当の理由は、労基法上の規定でも、九カ条の認定基準でもないことがはっきりしてくる。
フリーかそうでないかの違い
要するに、フリーは労働者と認めたくない、これにつきる。なぜそう断定できるのか。いまは少なくなったが、かつては撮影も照明も美術も録音も、主要スタッフはほとんど映画会社に、いわゆる正社員として所属していた。その人たちについて、本人も、会社も、それこそ労働省も裁判所も含めて誰一人として、労基法上の労働者であり、労災保険が適用されることを疑っていなかった。その人たちの場合も、撮影の時間、場所の設定について、瀬川さんたちフリーのスタッフよりはるかに自由がなかったなどと考えることは出来ない。また高度な専門職能的技術の点で、フリーの人々より劣っていた、独自の判断を提起できなかったとも思えない。結局どこが違うかといえば、期限の定めのない、フルタイムの労働者=正規従業員か、期限の定めのある労働者=フリー・スタッフかの相違しかないのだ。
さきに引いた例でいえば、れっきとした大学教授は労働者だが、しがない非常勤講師は労働者でないというのも、この原理による。まさか大学教授の方が、非常勤講師より、自己裁量性が少ないとか、拘束性が強いとか、専門的技能において水準が低く、上位者の指揮命令を受けやすいとか、考える人はいないだろう。
こう見てくれば、瀬川労災請求運動は、芸能現場におけるフリーの技術スタッフだけでなく、フリーの芸能人すべてに直接的にかかわる重要な課題だということがわかる。技術スタッフの組織ではない芸団協が、わがことのようにこの問題に取り組むのも、全く当然と言わなければならない。ところで、このようなフリーのスタッフや芸能人の、労働者とも認められない、不安定な、何の保証もない職業生活は、やむをえない必然で、この仕事に携わるものの宿命なのだろうか。
そうではない。眼を転じて、外国の例を見てみよう。政府も、財界も、学者先生もマスコミも、グローバリゼーションなどといって我々庶民に国際化を迫る御時勢だから、私たちもヨソの国の実情を見てみたい。都合の良いときだけグローバリゼーションなどと言ってもらっても困る。「よいとこ取り」は許されないのだ。
フランスの場合
最近フランス政府が発行した、芸能分野における使用者の社会的義務を列挙した資料の翻訳のお手伝いをしたので、その内容の一部を紹介したい。
まず、なんとフランスでは、芸能人やスタッフを労働者と認めるための条件などというものが存在しない。反対に、労働者でない、すなわち独立自営業者として取り扱うことが許される条件だけが存在する。それはこうだ。
まず芸能人の場合、自営業者として商業登記をしていて、その資格によって仕事をする時。次いで技術スタッフの場合、業者として登記していて、なおかつ仕事の遂行にあたって法的従属関係にないときだけ、業者になる。それ以外の場合は、芸能人もスタッフも、すべて労働者として扱わねばならない。この原則は、芸能の種類を問わず、また合法的な契約書で請負とか委任とか、その他何と規定していようと貫かれると法律で定めている。
さて労働者とされると、どんなことになるのか。社会保障権と労働権が尊重される。すなわちフリーの、何時間、何日あるいは一ステージ、一公演、一本などの単位で仕事の発注を受けた、芸能人もスタッフも、すべて一般労働者=正規従業員の社会保険――年金、健康保険、労災、失業保険、家族手当、生命保険――が適用される。さらに芸能関係フリー労働者むけの特別の手当、すなわち有給休暇手当や、専門職能育成手当が支給される。これらはそれぞれ独立した公庫のようなものが存在して、プロデューサー、事業主が自分の負担分と労働者の負担分を天引きして、たとえ一時間の仕事でもその賃金に比例した拠出金を支払わなければならない。権利者である労働者は、のちに受給権が発生したときに、各公庫から保険金等を受け取ることが出来る。
また労働権としては、その分野に適用されるユニオンと経営者団体の労働協約を経営者がスタッフや芸能人に示さなければならない。彼らがユニオンのメンバーでなくとも、その労働条件、賃金表が自動的に適用される。そのほか、フリーの場合は採用時に必ず文書で労働契約を交わさねばならない、もしグループで仕事を受ける場合は、代表者一人の署名で有効だが、各メンバーからの文書による委任状をとり、かつ契約書に必ず全員の氏名と各人あたりの賃金を明記するなど、この業界の実態に沿うよう工夫している。
さらに、劇団や楽団、プロダクション単位の請負で出演や仕事を発注する時も、製作者――放送局映画会社レコード会社等――は、必ず相手が社会保障拠出金などをきちんと支払う体制があることを確認することが義務づけられていて、もしそれをせずに未払いなどが発生したときは、最終製作者が連帯責任を負って、替わりに賃金、税金、社会保障掛金などを支払わねばならない、とまで法律で定めている。この「社会的義務のガイド」は近く芸団協の「実演家の地位シリーズ NO、2」として発行されるので、ぜひ読んで、日本の芸能をとりまく状況を変える運動を進展させる一助にしてほしい。
大事なことは、「シカタナイ」、「日本では無理だよ」などとあきらめず、どんなにゴールが遠く見えても、そこへ到達するための具体的な手はずをみきわめ、一歩一歩進むことだ。それこそが名カメラマン瀬川さんの無念にこたえるただ一つの道だと信じる。そしてそれはまず、瀬川労災東京高裁上訴審への支援からはじまるのだろう。