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日本ジャーナリスト会議〈JCJ〉機関紙「ジャーナリスト」2001年11月 12月号

反省すべきは私たち

――同時多発テロに直面して

 JCJの会員諸兄姉は、そしてまた平和と民主主義派とか、環境派とか、進歩派とか、また私みたいな自称左翼や本物の新・旧左翼諸派も社会民主主義派を含めて、この稿ではやむを得ず・革新派・と総称するが、その人たちは今度の事件に直面して、ゆるぎなくテロは許せないが軍事報復も絶対反対という立場に立っているとみえる。しかしそれだけでよいのか。今度の事件は私たちにも深刻な反省を迫っていると考える。
 私たちは、いつ自分たちもテロの対象になるかも知れない――という直接の恐怖感以上に、その根底にわだかまって消えない得体の知れぬ、黒々とした不気味な感じや、根底からの動揺を覚えたのではないだろうか。
 その正体を、私は近代市民社会の崩壊のきざし、少なくともそれが暗黙の前提としてきた近代的国民国家システムの限界の顕在化の予感だと思う。
 その原動力は、ボーダーレスのグローバリゼーションだ。それは単なるアメリカの政策ではなく、時代の必然的動向とみなければならない。それを利用して大もうけしたのが、ヘッジファンド手法によってアジア諸国の経済体制を崩壊に追い込んだ国際金融資本だった。
 それについて眼に見える衝撃として出現したのが、今度の同時多発テロだ。なんとも陰惨だが、近未来を暗黒の面から映しだす陰画になっている。攻撃目標の設定は国際金融資本のメッカであるニューヨークの超高層ビルをはじめ、きわめて正確であったといわざるをえない。しかもテロリストたちの信念は、ある意味で時代がかかった中世的なものに見えるし、実際に彼らが使った武器は数丁のナイフだけという。これも近代とはおよそ縁遠いものだった。しかしそれがまた、大型ジェット機という現代のハイテクの代表的な機器とその乗客を巻き込む。そこにこの事件の持つ根深さがある。
 このテロは、私たち革新派を含めて、「自由、人権、民主的政治制度」を享受し、相対的には裕福な生活を送っている四億人の「先進的」市民が、三六億人もの差別を受けていると感じている途上国の大衆に恨みをもって取り囲まれているという、現代世界の一側面を具現しているように感じられる。
 さらに言えば、私たちがおそらく共有している民主的政治制度その他を守れという要求は、もしかするとこの三六億人の犠牲によって成立している豊かな生活を維持しようというのが本音だととられるのではないか――という疑念も沸き出してくる。話は大げさに過ぎるだろうか。
 このテロの報道に接して喜んでいるのは、パレスチナをはじめ、中東の一部の人々だと思っていたら、唐亜朋氏が、公式対応や表向きの報道とは違って一般の中国人はこのテロを知ってなんと「北京五輪が決まった瞬間にも劣らない興奮」と朝日新聞紙上で伝えている。
 そういえば村岡到氏が「稲妻」紙上で指摘しているように、いまややむをえず私たちも含めて、先進国民衆の統一スローガンになった観のある「自由と人権、民主制度を守れ」というブッシュの呼びかけには「平等」が欠落している。
 この欠落は、私たちを含めた「民主社会」の側の「大義」の内実を鮮やかに示している。「平等なき自由、人権、民主制度=搾取と収奪の自由」と。
 ところで、テロ実行犯たちの資質、規律と忍耐力、組織力、財政力、時代を先取りする黒魔術風展望と計画性は驚嘆に値する。この計画を実行するうえでの気の遠くなるような準備期間、大型ジェット機の操縦という高度な技術の習得など、前世紀初頭のロシア革命家の言葉を拝借すれば「比類なき革命的英雄精神」の具現と、あえて言えないこともない。
 その根底には、中東はもとより、中国やインドネシアの人々を含む真に広範に民衆の押さえようのない積年の忿満(ふんまん)があることは疑いようがない。
 しかし私たちはテロリストたちにこういわねばならない。
 ――君たちの行為には絶対に反対する。もし事前に知ったら身を刺し違えても阻止する。理由? 私たちの倫理的価値観を語っても通用しないだろう。君たちは別の価値基準で生きている。しかしあえて共通する可能性のある論理でいえば、君たちのテロ行為は君たちの要求や理念――部分的には私たちと共通する面もある――の実現に役立たず、むしろそれに逆行して敵を利するだけの結果しかもたらさず、しかもそのようなテロ行為が正当化され、普遍化されれば、私たちの本来肯定的な民主的社会の大義自体が壊滅する。君たちは私たちの敵になる。
 しかしそんな言説は彼らをいささかひるませないだろう。なぜなら私たちのこの言説は、運動や闘争の事実による裏づけを全く欠いているからだ。グローバリゼーションという時代の基本にたった新しい非暴力の闘争を、少なくとも彼らのテロを色あせさせるような迫力と規模で展開していないからだ。
 問題は私たちに彼らに匹敵する持続的な革命的英雄精神がなく、したがって新しい闘争形態を展奔する感覚も意欲もないということではないか。
 例えば沖縄の軍事基地撤去について、アメリカ市民の要求とも多面的に結合した、あるいは同じ立場にいる韓国の民衆とも統一したボーダーレスの運動を従来の二〇世紀後半型を乗り越え、新しい運動形態で展開できたはずだ。
 私たちがこれを具現化し得たとき、はじめて私たちの言説は彼らに対して説得力を持つのではないか。以上が私の考える反省の第一である。
 二点目は、アメリカ政府の政策、したがって先の大統領選にかかわる。そこで共和党候補が勝った。そして今日の始末だ。しかし第三の進歩派的候補もいて、それが降りればまちがいなく、民主党候補の勝利であり、実際にアメリカの現地ではそのような呼びかけも盛んに行われたと聞く。そのとき蒸たち革新派は、アメリカの仲間も含めて民主党も共和党もほとんど違わない。降ろすでもないと考えた。
 それは正しかったのか。政治は結果責任の世界だ。その点で私たちは政治的に未熟だったのではないか。国際的な現実政治の対立点とその選声の結果の重大さを見ることができず、時代の大きな流れを見誤ったのではないか。そこでは極く小さな相違として問題にしなかった対立点が、実に大きな差異をもたらす。
 よくいわれるように、極左冒険主義と右翼は相互に補完しあい、お互いを糧として生き延びている。それはイスラエルの右翼とパレスチナの極左テロリストの関係が如実に示している。だから私たちは高見の見物で論議しているだけでなく、現実政治をいささかも右傾化させないよう大きな、したがって妥協を重ねて統一を作りあげ、少しでも三六億の人々の共感を得られる、前進を一歩一歩実現していかねばならない。
 もちろん私たちはアメリカ大統領選に参加する権利もなければ、したがって二〇世紀の常識からいえば何の義務も責任もない。しかしグローバリゼーションのもとでは、私たちもアメリカ大統領の政策の被害者になってしまうのだ。
 現実政治の問題だから、いまだに巨大な財政力や軍事力を持つ国民国家とそのシステムも、もちろん十分に視野に入れねばならないが、しかも従来の常識をこえて、ボーダーレス時代にふさわしい国際的な、統一のあり方を構想すべきでなかったか。ここにはもちろん日本国内の統一的政治戦線の形成という課題も含まれる。
 以上が私の第二の反省点である。さきにお借りした前世紀の古い革命家の論文の題をもじっていえば「くちばしの黄色い左翼小児病患者」と自己規定すべきだったのだろうか。一〇月一五日現在。  

佐藤一晴 追悼・遺稿集刊行委員会編「一晴の夢、歩んだ世界」(2002年11月16日発行)所収
初出:日本ジャーナリスト会議〈JCJ〉機関紙「ジャーナリスト」2001年11月号、12月号