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【遺稿】 初出:2002年11月16日 

低迷する日本の労働組合運動への提言

日本社会の構造的改革を推進するのは労働組合の任務

真の構造改革とは「企業第一主義」からの脱却

――日本には本当の労働組合はないと智恵子は言う。私は驚いてビルだらけの街を見る。そこはきってもきれない日本型の労働組合があるではないか。たしかに、今は何の役にも立っていないが――
 小泉内閣が構造改革を正面からかかげて選挙に大勝した。いまでも高支持率は続いている。労働組合は小泉流構造改革反対、リストラ反対などなどで対抗している。しかしそんなことでは、どうにもならないのではないか。まず構えがなっていない。
 ところで、小泉人気について、労組やいわゆる革新系は、パフォーマンスだとか、マスコミの異常なもち上げだとか言っているが、これも的を射ていない。だいたいマスコミというなら、小泉の前の森の、そして自民党の解党的不人気だって、マスコミのせいだろう。自分たちの都合でマスコミの影響力のせいにしてもいけないのだ。
 私は小泉人気には一定の評価が必要だと思っている。だいたい敗者は勝者から謙虚に学ばなくてはならない。それがでなければ、いつまでも二番手、この前までの例で言えば「三分の一」野党を抜け出すことはできない。
 小泉人気の原因は、一つはよく言われるとおりそのキャラクター、とくに森との対比だ。しかしそこも野党諸君は学んでほしい。あのような劇的変化をトップの人事において可能にした与党・自民党の力量と層の厚さには並々ならぬものがある。さらに彼のキャラクターについて言えば、単に森との対比の大きさというだけでなく、いささか時代の風向きを体現しているところがある。いろいろケチをつけるのはたやすいが、あえていえばあの今風に追いつける政治家が、野党側のトップクラスにはいないのではないか。
 しかし、より本質的な小泉人気の原因は、構造改革をかかげたことにある。そして本当に、いま日本の社会は構造改革を必要としている――緊急に。有権者・民衆はそれを身体で感じていた。小泉はこれに正面から応えた。構造改革を政治スローガンの柱としたことが重要だった。現に野党や労組は正面から言いもしなかった。この場合、小泉の処方箋なりメニューの柱と細部の妥当性はまた別問題である。
 これに対して野党は、自分らの方が本格的な改革派だと言ってみたり、小泉メニューの一層の推進を言ってみたり、またはメニューの一つ一つに批判をするにとどまっている。特殊法人問題、や不良債権処理、社会保障、雇用、労働等々である。批判が正しくないわけではない。しかし受身の批判ではとても対抗できないことは目に見えている。
 わたしの経験してきた労働組合運動でも、闘いを勝利に導く要諦は守勢から攻勢への転換にある。そしてこの転換は並大抵のことではかちとれない。根本的な路線の設定し直し、そのもとでの長期にわたる組織の意思統一、その上での外延的共闘路線の設定が必要だ。
企業社会から市民社会へ
 構造改革というとき、「構造的」とは、部分的でなく骨格から細部にいたる全体像が示されることを意味する。その意味では小泉メニューも全体像を示しているわけではないのだが、流れをみていると例えばその理念の一つは「既得権の打破」というようなことかも知れない。あるいは「官から民へ」ということも中心テーマの一つであろう。「民」とは企業のことだから、企業の強化を通じてしか日本の改革はできないということになる。
 いま求められているのは、小泉改革への個々の批判ではなく、真に対置しうるわれわれの構造改革の柱を打ち立てることである。それができてこそ、小泉改革に対してもその見地から批判し、あるいは受け止めるべき点の判別も可能となるであろう。自らの路線が確立できれば批判も柔軟かつ現実的となる。
 私が提起したい構造改革の中心スローガンは「企業社会から市民社会へ」である。そしてこの改革を担うのは労働組合であり、野党または革新政党は、労働組合の政策、理念を実現する協力部隊として力を発揮する。
 しかし、この議論は、ここまできてぱたりと止まる。そもそもそんな労働組合はあるのか。あるいは、そもそも日本に本当の意味での労働組合はあったのか、あるのか、という疑問にとらわれるからである。
日本に労働組合は存在しない
 私はそう思っている。ただしこの場合の労働組合とは、名称のことでなく、英語で言うトレードユニオンという内実での労働組合ということだ。去年のはじめだったか、私はオブザーバーとして、ILOのマスメディア・芸能関連のシンポジウムに出席した。その席上発言する機会があり、「そもそも、日本は先進国と思われているが、日本にはヨーロッパ語でトレードユニオンという実質をそなえた労働組合はほとんど存在しない」と述べたが、それは多くの参加者にショックを与えたようだ。とくに日本のマスコミ関連労組からの、いわば同僚としての出席者たちからもヒナンとヒンシュクを買った。
 しかし、では労働組合=トレードユニオンとは何か。これもウェッブ夫妻の定義以降、論ずれば数限りもない論説をもち出すことになるのかもしれないが、私はそんなことにつきあっている暇はない。どこからも文句が出ないように、まさに国語辞典の水準の規定だけでいこうと思う。日本で言えば「広辞苑」、英語ならCOD(コンサイスオックスフォード辞典)やウェブスター、つまり常識的な水準。
 労働組合――トレードユニオン=ある一つの職業または産業の労働者を代表して、雇用側との集合的交渉を通じて、その賃金・労働条件を設定する単一組織。
 「日本にそういう組織がありますか? ほどんどない」とILOで私が発言したのは、いわばまがりなりにもそういう機能をもつ組織=本当の労働組合=として、たとえば日本海員組合やら全建総連傘下の単組やら、そして私もいささか関係をもっていた音楽ユニオンの存在などを思い浮かべたからである。
 しかし他には、どこにあるのだろう。私はここで議論を、日本的労働組合=企業内従業員組織の話に、少なくともすぐにはもっていきたくない。そうすると、また、「出来ない話」、「観念的な議論」、「日本社会の宿命だ」、「とやかく言ってみても何もはじまらない」といったたぐいの、なんとも後ろ向きな、投げやりの、「その話にはウンザリした」といった顔を思い浮かべるからである。
 組織論は後回しだ。大切なのは何をするか、すべきか、いかなる機能をはたすべきかなのだ。組織論はその次。
基本は年功序列
 構造改革の中心スローガンは、「企業社会から市民社会へ」と書いたが、あらためて「企業社会とは何か」とか、「市民とは」とか論じない。むしろ具体的課題を示すことで、論議や理解は進むだろう。先の「労働組合」や「企業」、「市民」に限らず、すべての用語、概念は国語辞典の水準の常識で足りるだろう。だからいらざる付言ということにはなるが、ここでいう「企業」というのは民間の「会社」だけでなく、中央・地方の役所や各種の公益法人等もすべて含む。
 さて、日本社会は企業社会で、その根底には終身雇用、年功序列、企業内組合なる「三種の神器」が三位一体で堅い岩盤を作って支えている、という事になっている。こういう風に、社会の構造の根底が、実は雇用労働関係の基本要因から定まっているのだという認識は、正しい。しかし、この三位一体の不可触性におそれ、「神器」なる伝統的、非解放的、したがって歴史構造的概念がまともに、それこそ構造改革の対象にはなってこなかった。
 当今はようやく雇用者側から、終身雇用制の廃止やら、年功賃金の見直しやらの議論がでてきた。(なぜか企業内組合の廃止にはふれていない。おいしいところはとっておこうということか)。
 労働組合の方は、もっぱら改革=リストラ反対だとか、まずセーフティーネットだとか、規制が必要だとか、いろいろ言っていて、それはまた各論として必要なところもあるにせよ、まず姿勢がなっていない。小泉改革のところでもふれたが、まずこちらの改革の柱がはっきり立って、攻勢の立場を確立して各論に入っていかない限り、勝負の行方はすべて決まっていて、結局は企業の論理が貫かれることになる。
 そして私見によれば、労組側がよって立つべき構造改革の基本――企業社会から市民社会へ――の中のキーポイントになる課題は、まさにこの年功序列(賃金)体系の廃止である。終身雇用制にしても、企業内組合にしても、年功序列型の廃絶に成功すれば、どのようにでも料理可能な末端的現象にすぎない。
 さて、現在経営側が推進しようとしている年功序列からの転換という構造改革は、基本的な矛盾を抱えている。そこを解決しないとこの改革は失敗する。
 しかし労働組合の方も、何の理論も展望も政策も持っていないから、結果的には根本的構造改革はなされず、ただ弱者である労働者にひどい低賃金や恣意的賃金体系が押しつけられて終る。恣意的賃金体系とは実は体系ですらないのだが。にもかかわらず現状では労組側の抵抗や批判は経営側以上に無理解、無展望であり必ず負ける。
 雇用者側=経営側の矛盾の第一は、まず、年功序列型賃金体系を崩壊させたあとの展望をもっていない。成果主義、達成型、能力主義、
年俸制などと、相矛盾する、或いは次元の異なるものを並べているが、賃金査定基準だか、賃金決定原則だか、賃金形態だかがあいまいに混同されている。いろいろ言われていることを普通に理解すれば、要するに恣意的な賃金決定がしたい、現象的にいえば査定部分の拡大とか、あるいは出来高払いだとか、総じて社会的規制の働かない賃金システムを実現したいという、前時代的あるいは近視眼的な、いかにも個別経営の責任者らしい願望を並べたにすぎない。要するに本格的な賃金システムの構造改革は考えていないに等しい。だいたい本格的に能力査定を強化して、それが社会的に通用し、したがって経営基盤を安定させる土台にするには、大変な査定教育担当やセクションの拡充、試行錯誤の費用など莫大な非直接費としての人件費関係費用がかかる。そんな覚悟はあるのか。
 また例えば、外国の実態で見ても、いま日本で取沙汰されている査定の対象になるのは、例えば副社長だとか、海外支店の広域的責任者とか、せいぜいその下の局長・部長どまりなのだ。そういうことをわかっていっているのだろうか。富士通は早くも撤退した。
 第二の矛盾は、賃金体系の抜本的改革と総人件費の削減を同時にやろうとしていることだ。あるいはこう言ってもいい。年功序列型賃金体系の改革が目的なのか、人件費の節減が目的なのかはっきりしない。両方ともに達成したいという願望はわかるが、それは結局人件費削減が主目的になる。あるいはどちらも成功しないということになる。戦に勝ちたいのか巴里がほしいのか、という昔からの格言にぶちあたるだけだ。
年功序列こそ諸悪の根源
 さて経営側は、真剣に年功序列型の改革を考えていない。その呼び声のもと恣意的査定の拡大や人件費の削減を、あるいは終身雇用制の廃止を考えているにすぎない。労働者側はどうなのだろう。もっぱら経営側の「改革」提案のアラ探し、ホコロビ探しを入り口にして、「痛み」の軽減のためのさまざまな妥協的方途を探っているにすぎないと見える。それでは負ける。
 構造改革は国民の広い層が必要を感じ、「痛み」も認めて変化に耐えようとしている。ただその内容と先行きが見えないだけだ。だから労働組合が正面から日本社会の構造改革をかかげ、その基本を明示し、したがって将来展望も明らかにすれば必ず社会各層の多数の支持を得て勝利することができる。あるいはそれ以外、日本で労働運動が隆盛をとりもどす、少なくとも社会的存在価値をもつ道はない。ところが現実は、とてもそんな風には見えない。むしろ労働組合は、結局、小泉流構造改革の各論にさまざまな修正をほどこしているにすぎない。あるいはむしろ、本来進めるべき構造改革を妨害しているようにも見える。
 それはとくに、日本社会の構造改革の中心的環であり、その課題の解決によってのみ日本社会が自由で平等で民主的社会に改革するところの、年功序列型システム(人事配置と賃金形態)に対する労組の姿勢にあらわれているように見える。
 ところで、日本型年功序列賃金の本質について、あらためてここで論ずる必要はないだろう。むしろいくつかの歴史的問題や経緯などに触れればよいと思う。
 第一に確認したいのは、少なくとも私の知る限り、五十年以上前から今日にいたるまで、日本的年功序列型賃金体系が本質的に優れた、あるいは少なくとも他の形態と較べて大きく劣った体系でないという議論は、まず成立したことがないという事実である。
 五十年前は、日本の植民地的低賃金水準を維持する基盤であったというのが、主要な賃金論者・学者の主潮的議論であった。
 その後、とくに高度成長期、六〇~七〇年代のほぼ四半世紀にわたる社会状況の変化と輝かしい春闘の連続的成果は、年功序列型を押し拡げて、あらゆる業種・職種の賃金決定基準にしてきたし、また賃金改善の当然の枠組み、したがって貴重な構造になった。労組幹部は、少なくとも、バブルがはじける九〇年代まで、年功序列システムを事実上擁護し、謳歌し、唯一無二、不動の宝物としてあがめる状況になった。それに迎合する学者もいて、しかし正面からではなく側面から、さしあたって、何とか擁護する骨を折ってきた。
 しかし賃金決定の原則が、会社に就職し、在籍した年数やそれに若干年齢も考慮した要素できめるべきだと全面的に展開した議論はなく、同一労働同一賃金こそ不動の賃金決定原理だということを正面から否定する議論は全く見られなかったといってよいだろう。しかし労組幹部は、そして一般組合員も、高度成長、右肩上がりの前年比何%増の安易な賃金闘争にふけって、自分たちが年功序列という底なしの泥沼に――さしあたっては丁度良い湯加減に感じられたのだろうが――どっぷり漬かって、意識も感覚も全く企業にとらわれた存在になっていたことに気づかなかった。その夢がやぶられはじめたのは、やっと二十世紀が終わる頃だったのではないだろうか。しかしとても年功序列システム、とくに賃金形態を客観的に相対視してみるほどの段階には達していない。
 ジョン・レノンのイマジンになぞっていえば、
「想像してみようよ、年功序列のなくなった世界を。
そこには会社への隷属もなく、
だから不必要な遠慮やつき合いもなく、
自由でのびのびと、
気に入った職場を探すこともできる………
想像してみようよ、そこでは君の努力や才能や創意が本当に評価される。
くたびれたら休めば良い。老後もゆったり暮らせる――会社のおかげでなくて。」

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 【編者付記】 この一文は今年一月二十六日、六十九歳の生涯を閉じられた佐藤一晴氏が、走り書きのように残されたものの一部を、複数の方々のご助力によって解読し、私がまとめたものである。佐藤氏の執筆時期は二〇〇一年の夏から年末までの間のいずれかの時期、つまり入院中のことと推定される。
 佐藤氏もこれはプライベートな準備稿と考えておられて、もとより、このまま発表する予定はもっておられなかった。しかし十分な論証を伴った長大な論文に仕上げるつもりもなく、不足する論点を付け加えた上で、まとめあげて発表したいと考えておられた。
 佐藤氏より突然の電話があったのは一月九日であった。「八月に胃癌の手術をして年末まで入院していた。今は自宅で静養中だが、書き残したいことがあるので、口述するのでまとめてくれないか。多少書いたものもあるにはある。遺言のつもりだ。気弱な話だが、もしやと思っている」とのことであった。また、「これはあくまで私の意志でまとめたいので、申し訳ないが、あなたの意見と異なる内容であっても、原稿にしてほしい」ともいわれた。私は同一二日にご自宅を訪問した。録音機も用意していた。その日佐藤氏は、「せっかく来てもらったが、今日は調子が良くない。口述は次の機会にしたい」といわれ、いくつかの草稿と資料を示された。また、横になりながら、病状の経過と、原稿作成の意図を語られた。
 その日は、草稿と資料をお借りすることを了承いただいて、清書したものをFAXでお送りする約束をして辞した。判読不能の箇所を残しながら一応完成した清書を佐藤氏にFAXしたのは二一日のことであった。
 残念ながら時期はすでに遅く、ついにご本人がこれを読んで私に追加訂正を指示する機会を得ぬまま最期を迎えられた。私は通夜にこの未完成稿と自筆草稿のコピーを数部持参して、三人の方に判読をお願いして協力をいただいた。間もなく、一か所を除いてほぼ納得のいく結果を得ることができた。私は文章として読みにくいところに少し手を加え、また、一二日にいただいたコメントからほんの少し内容をつけたして、このようにまとめた。佐藤氏の心づもりには遠く及ばぬものだが、発表を望んでいたその遺志に沿うため、ご遺族の了解が得られならできるだけ多くの読者に供する道をさぐりたい。(2002年3月27日 鈴木信幸)

佐藤一晴 追悼・遺稿集刊行委員会編「一晴の夢、歩んだ世界」(2002年11月16日発行)所収
初出:同上