夕暮れの部屋で
――遺稿を受けとった経過など
鈴木信幸
私の二〇〇二年は一晴さんとともに始まった。
一月九日水曜、私の職場に一晴さんから電話をいただいた。その時私は席にいなかったので、同僚がメモをしてくれていた。佐藤も多い名前だし、今の職場に電話をもらうことなどなかったから、私は誰とも考えないままメモの番号にダイヤルした。
「いや、忙しいところすまないがね…」と話し出されても、咄嗟に誰だかわからなかった。声は違うがどうも話の中味は一晴さんらしい。私は話を聞きながら、あわてて手帳をめくり自分がダイヤルした番号を確認した。それほど声が変わっていた。私はうかつにも佐藤さんの病気のことはこの時まで何も知らなかった。いつもこれだ。
佐藤さんは病気のことから語り始めたが、用件はこうであった。
「書き残したいことがある。多少は書いたものがあるにはあるが…。それは全く不充分なので、まとめたいから手伝ってほしい。口述筆記のようなことを頼みたい。遺言のつもりだ。気弱なようだが、きょうの午前中病院に行った際、医者からちょっとショッキングなことを言われた。ちょっと急ぎたい」。
次の日に私は電話で返事をして、十二日土曜の午後、ご自宅を訪ねた。
「せっかく来てもらったけど、きょうは体調が悪くてね。本格的には次ということにして、きょうは概略の話をするから…。録音はまだいいよ」。
そういわれながらも私は用意した録音機を回した。
「この間の電話では失礼した。ちょっと取り乱していてね」。
佐藤さんは律儀というか、病気の経過から話し出した。昨年夏に突然吐血し、胃癌の第四期と言われ胃の全摘出手術をしたこと。普通二~三か月で退院できるのだが、食事ができないので入院が長引いたこと、年末に帰宅したこと等である。「なにしろ食べられないのが困る。服を脱いだら骨格模型のようだよ」。
「もうひとつは仕事の内容と言うか、どんなことかというと、『日本の労働組合への提言』ということになるでしょうけどね…表題としてはね。結論は例によって私の書くことだから『企業内組合の克服』ということになるんだけれども…。内容で言うと、『真の構造改革』が必要でね、その中心テーマは『企業社会から市民社会へ』。それを担うのが労働組合で、企業内組合ではそれはできない、と。そんなところかな。
ただその、いろんなかかわりが出てきて、なんていうか、今までの『革新派』というか、『平和と民主主義派』というか、の常識的な意見とかなりかけ離れているんでね。あなたのお気に入らないところも出てくるだろうけど、ご意見もお聞きしたいとは思うが、最終的には私に決めさせていただくということで、へんな言い方だけどお仕事としての側面ももつと思うので、些少だけどもね…」
と、一晴さんはまた几帳面にも、私への手間賃支払いについても提案された。
「ここにね、一応書いたものもあるんだけれど、完成していないしあいだも抜けているんだ。だから足したい。前触れはそんなところかな。もうこれだけでくたびれちゃったよ。」
「一番最近書いたものはね」といってジャーナリスト会議の機関紙に掲載されたアフガンに関する記事を見せてもらった(本書に掲載)。ところが「下」はあるものの、「上」が出てこない。奥さんの手をだいぶ煩わしてさんざん探すが見つからなかった。
一晴さんが「きょうはこのぐらいにして…」と言うと、ワインと気のきいたおつまみを奥さんが運んで来てくれた。一晴さんも少し飲み、食べた。おいしいワインだった。あとはよもやま話で、私の近況なども聞かれて激励を受けた。陽の暮れるまま、少しずつ暗くなる部屋でしばらく明りもつけず、過ぎていく時間を味わうようなひとときだった。
こういう次第で、いくつかの文書をあずかってその日私は辞した。あずかった文書は手書きのものが三種類。印刷されたものが、いくつかあった。手書きの三本の原稿を一応ワープロにし終えたのが翌週日曜深夜だった。とくに「智恵子抄」ではじまり「イマジン」で閉じる原稿は判読が困難だった。かなりの未読部分が■印で残った。本人の話の内容からも、これこそ軸となるはずの原稿で、最後に書かれたものだった。一月二十一日月曜の午前、一晴さんにファックスした。二十二日電話を入れた。一晴さんは電話に出て、「いただいたよ。すまないね。ただこの二~三日具合が悪くてね。まだ見てないんだよ」。翌日に電話をした時にはもう本人は電話に出られなかった。やはり私の仕事は遅かった。
二八日のお通夜に、私は一晴さんの原稿と私がワープロにしたものを各数部持参して、判読してくれそうな方を探した。山崎晶春さん、丸山重威さん、松本伸二さんにお願いした。数日後、三人からの校正稿がそれぞれ私のもとに送られてきた。これでほぼ納得いく判読ができた。ただ一箇所、「外的共闘」というのはどうかと思っている。もっとも読みにくかったところだ。
一晴さん自身、これをそのまま発表するつもりはなく、欠落を埋めて完成して発表することを望んでいたことは先に書いたとおりだ。しかし、もう追加訂正はのぞめないのだから、私はできるだけ早く多くの人の目に降れる形で活字になることを望んでいた。本書が配布される頃には推定執筆時期から一年は過ぎることになる。小泉人気もその後急落したりして、やや時宜を欠くかもしれないが、あとは読者の読み方次第であろう。
一晴さんとの出会いは活字の上のことで、学生時代たまたま労働旬報社の季刊誌「労働運動史研究」を手にし、「東京争議団の十五年」を読んだことに始まる。よく分からなかったが、躍動感にドキドキした覚えがある。その後、大学の先輩(当時連合通信社記者)とともに「争議の焦点」『創刊号』をガリ版で作って勝手に配っていた。一九七九年年のことと思うが、四谷・主婦会館のロビーで一晴さんを見かけ、「これはお手元に届きましたか?」と差し出すと、「いや」とのことだったので、渡した。これが実際に会ってことばを交わした最初だったと思う。
一九七九年一二月に東京労働争議研究会(争議研)が発足した。東京争議団のOB会が母体になり、「争議の焦点」はその機関誌と位置づけられた。一晴さんは代表幹事の一人となられた。その頃は、日本フィルがまだ争議中でもあり、一晴さんは音楽ユニオンを代表して東京争議団共闘会議の総会によく出席しておられた。
一九八〇年一二月、伊豆大川で開かれた東京争議団第十九回総会で一晴さんは、公式の挨拶や報告を終え、そして争議研発足の報告と協力要請などを終えた後、「漫談」と前置きして語ったのが「忠臣蔵」と「四谷怪談」を題材とした以下のような話である。
『仮名手本忠臣蔵』は一七四八年大阪竹本座で人形浄瑠璃として初演された。題材は一七〇二年の赤穂事件である。名前を変え、時代設定を変えて脚色してあるが、幕府の禁止によって四六年間上演できなかったという。
ところで事実は、浪人たちが主君の仇を討ち、全員切腹となった。そこで切腹を命じられた赤穂四十七士の罪状は何であったか。
記録によると罪状は三つある。一つは吉良家に押し入り上野介を殺害したことである。しかしこれは仇討ちであり、当時幕府は武士の仇討ちを奨励していたのだから、死に値する罪ではない。二つ目は「飛び道具を用いた」ことであるがこれもいわずもがな微罪。三つ目は「徒党を組んだ」ことだ。実はこれこそ、幕府の支配を揺るがす最大の罪状であった。赤穂浅野家は断絶したのだから、藩の枠を超えて四十七人が結束して計画・実行したということこそが幕藩体制の根幹にあらがう行為であったのだ。
ところで彼らの目的は何であったか。それは主君の仇を討つという行動によって、お家を再興することであった。今風に言えば「企業再建、雇用確保」という事になる。結末はあまり知られていないのだが、実は浅野家は小藩として再興を果たている。
さて「東海道四谷怪談」は鶴屋南北の作で一八二五年に四代目菊五郎が初演した。赤穂事件から百二十三年後である。「仮名手本忠臣蔵」と同時平行で上演され、「忠臣蔵外伝」として脚色されている。伊右衛門は四十七士に加わらなかった赤穂浪士であり、その堕落と非道の行く末が四十七士の死に様と対比されるのである。幕藩体制の土台が腐り、規制秩序の崩壊が始まる時代を色濃く反映した脚本であった。
現実に脱藩浪人たちが「徒党」を組み、やがて倒幕を果たすのは、それからわずか四〇年後である。(以上は記録がないので年代など調べながら記憶で書いた。)
この一晴さんの話は、たとえば当時開始した「電気総行動」への評価・激励・意味づけであった。沖電気の指名解雇争議支援のために、電機の各職場に埋もれていた活動家が立ち上がり行動に結集し、自分たちの要求や課題もかかげた。「電気総行動」を作る上では、一人争議・富士電気の田上三郎さんの役割なども大きかった。こうした新しい行動形式にはいつも是非様々な評価がされる。
六〇年代の分裂・労使協調丸抱え攻撃の結果生じた、労働者の分断状態は独占資本側・権力側の成果であり足場であった。例えば東京電力では、六〇年頃の左右拮抗状態から、数年の内にすべての組合執行部から左派が排除される。左派活動家は職場ごとに分断された。拠点職場で左派活動家の解雇が発生し、これもおおむね見せしめとして功を奏した。例えば東京電力では辛うじて解雇争議の守る会が横の連絡の糸口として残った。分断された活動家の連携を再構築したのは争議とのかかわりからだった。その連絡が差別闘争の発端に結びついた。
既存組織をのりこえて横の連携を作る大企業争議の当時の一つの特徴的な動きについて、一晴さんはなんと「忠臣蔵」と「四谷怪談」をたとえにして激励したわけだ。当時これはずいぶんと話題になった。翌年の東京争議団総会議案には「古来『横』は『悪』とされた」という一節もある。
さらに一~二年後、一晴さんは四谷怪談の続編と言ってもいい話をした。今度はたとえ話ではなかった。
当時私は東京電力争議団の専従だったが、誰かが東電争議団の会議の場に一晴さんを呼んだ。どういう頼み方をしたのだろうかと思ったが、一晴さんは実に真剣に、「京大式」といわれていたB6版カードを並べたりめくったりしながら、一時間半ほどの問題提起をしてくれた。一晴さんが講演するというので「争議の焦点」編集部三人は全員そこに集合していた。私はその内容を原稿にして「争議の焦点」第何号かにしようとした。本書に掲載された「日本的風土に『統一』の思想をどう実らせるか」である(表題は編集部による)。原稿段階で一晴さんも校閲したが朱は入らなかった。これはしかし筆者名「会員S」とされただけで表紙も奥付もなく印刷されてしまった。(だから今になって発行日が特定できない)。実名では出せない、と判断されたことでもあったが、編集部は各自本業をもっていたことでもあり忙しさにまみれてそんなことになったのだろう。「こんな怪文書みたいなものは困るよ」とみなさんにしかられた。しかも、一晴さんはその講演にかかわって、ちょっとした災難に見舞われたとも聞いた。確かに実名では出せなかったのだ。そういうわけで未発表に近い。
沖電気争議、電力の各差別争議、そして近くは日立争議が全面解決したが、八〇年台はじめといえばいずれもまだ先が見えていなかった頃である。
何年もたって、一晴さんから「あれはよかった。私とあなたの共著といってもいいものだ」といわれたことがある。もっと早く言ってくれればいいのにな、とその時私は思ったけれども、これが今年はじめ私が呼ばれた理由かもしれない。しかし今回はちょっと間に合わなかった。とかくそんなものなのかもしれない。
佐藤一晴 追悼・遺稿集刊行委員会編「一晴の夢、歩んだ世界」(2002年11月16日発行)所収
初出:同上