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「他人の痛みを己の痛みとする」関生労組

  


2020.09.13 更新

    


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(2020.12.04)

2020.12.04:武建一が語る 大資本はなぜ私たちを恐れるのか

2020.11.05:『幹部活動の指針 14項目』ー武委員長より

2020.07.16:関生運動の全国化を恐れた「弾圧」をのりこえ、これまでの到達点を広げて挑戦
        ー武委員長より

2020.08.30:権力は何を怖れたのか(関生反弾圧市民情報センター/大野和興、「日刊ベルタ」、
        2020年08月11日11時58分掲載) 
        1年9カ月の長期拘留を経た武委員長が語る反転攻勢と社会変革の道筋


2020.08.03:「関生運動」の弾圧の背景とねらい
       ――「ドキュメンタリー映画 棘――埼玉上映会」
       (2020年8月1日[土])――木下武男

2020.08.03:「関生支部の闘いとユニオン運動」(木下武男:文)
 第1回 武建一委員長と私の出会い
 第2回 苦難の闘いで見えた真の「敵」
     「関西生コン」運動の試練の時期/生コン産業の構造とセメント資本
 
2020.11.05 更新
 第3回 産業別統一闘争の合言葉―「一人の痛みはわが痛み」
 第4回 暴力・弾圧に屈しない――「嘆くな。組織せよ!」
 第5回 「第一次高揚期」における組織の飛躍――「箱根の山を越えて」


2020.12.04 更新
『武建一が語る 大資本はなぜ私たちを恐れるのか』。
  (武 建一著、旬報社、2020年11月30日) 

     
    
  641日間にも及ぶ長期勾留! 89人にも及ぶ逮捕者!
 なぜ、いま戦後最大規模の刑事弾圧が労働組合に加えられているのか!?。
 
〈著者より〉
2018年8月28日の朝6時過ぎ、いつものように大阪市内の組合事務所に出勤した私は、いきなり警察に逮捕されました。ゼネコンを恐喝した容疑だというのです。

私だけではありません。私が委員長を務める労働組合、関生支部の組合員や関係者も、恐喝、強要、威力業務妨害といった容疑でつぎからつぎへと逮捕され、その数は1年あまりのうちに延べ89人にものぼりました。そして、私は、2020年5月に保釈されるまで、じつに641日も勾留されることになったのです。

ストライキ、ビラ配り、建設現場の法令違反の調査、労働争議……。私たちがやってきたのは、日本国憲法第28条で保障されている、ごくあたりまえの労働組合活動ばかりです。
それなのに、なぜ私たちは逮捕されることになったのか。

しかし、こうした事実を正確に報道するメディアも少なく、自ら調べもせずに警察情報を垂れ流すフェイクニュースが溢れています。
この本を通じて、私たち関生支部の活動のほんとうの姿、そして、「関西生コン事件」とよばれる現在の事態の真相を、ひとりでも多くの方々に知っていただければ幸いです。
    
         
    目次(「BOOK」データベースより)

    第1章 刑事弾圧(六四一日にも及んだ勾留生活;なぜ私は逮捕されたのか;協同組合の変質;労組破壊に加担したレイシスト)
    第2章 「タコ部屋」の過酷労働(私の生い立ち;「練り屋」と呼ばれて;労働運動に目覚める;関生支部の誕生;初めての解雇)
    第3章 闘いの軌跡(万博不況とオイルショック;ヤクザと生コン;大資本が恐れる産業別労働運動)
    第4章 大同団結(安値乱売で「がけっぷち」;大阪広域協組の誕生;シャブコン;二〇〇五年の弾圧事件;ゼネスト決行;目指すべき場所)

    武 建一(タケ ケンイチ)
    全日本建設運輸連帯労働組合関西地区生コン支部執行委員長。
    1942年鹿児島県徳之島生まれ。中学校卒業後土木会社などで働き、19歳で大阪へ出て生コン運転手。
    1965年、5分会180人で支部結成。初代委員長に23歳で就任。一般社団法人中小企業組合総合研究所代表を兼務



2020.11.05 更新
『幹部活動の指針 14項目』ー武委員長より。
 「関生支部の武建一委員長大いに語る――武建一、木下武男、吉本伸幸の座談会」、『月刊労働運動』、2020年11月号。
    

幹部活動の指針14項目】
(1)嘘、偽りなく、人を騙さない。人として誠実であること。自分の弱みを正当化しようとして相手の弱みに合わそうとするもたれ合いをなくす。
(2)情報は、闘いを鼓舞する。情報を仲間に提供し、敵には情報を漏らさない。
(3)敵対的矛盾は闘いによって解決し、内部的対立・矛盾は話し合いで解決する。
(4)約束に責任を持ち、時間は守る。整理整頓を率先して行う。
(5)その場限りの発言で責任を負わないことは、仲間の不信を買い、組織の地位を下げる。発信と行動には責任を持つ。問題を先送りせず優先順位を決め迅速に問題を解決する。
(6)幹部は、仲間を思いやることを大切にすると同時に「御用聞き」ではない。組織運営の原則を堅持し、人気取りの役職ではない。方針の実践は、時に嫌なことも言い、互いに高める努力をする。
(7)資本と権力には、妥協なく闘う勇気を持つ。仲間同士の対立矛盾は、話し合いで解決する調整能力が求められている。
(8)功績を挙げても名誉を求めない。成果は仲間から先に得るものである観点を貫く。
(9)敗北しても責任を他に転嫁しない。言い訳をせず自己批判の精神を持つことにより自分を高める挑戦心をもつ。
(10)幹部である誇りを持ち、恥の心を大切にする。
(11)自主性・主体性を確立し、指示待ちスタイルではなく、想像力と創造力を発揮して仲間の模範となる。
(12)自己犠牲をいとわず役職に専念する。やがて威厳が生まれる。
(13)絶えず労働者階級の立場に立ち、独学、本を読む、討論をするなど学習し、得られた知識を組織活動として実践する。月々、年間の目標を明確にし、掲げた目標を達成する。
(14)「敵を知り己を知れば百戦危うからず」、情報分析能力を高め先を見通した方針を実践する。絶えず行動の先頭に立ち「耳は大きく、口は小さく」を作風とする。


2020.07.16 更新
関生運動の全国化を恐れた「弾圧」をのりこえ、これまでの到達点を広げて挑戦ー武委員長より。
  
  
 

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  2020.08.30 更新
権力は何を怖れたのか 1年9カ月の長期拘留を経た武委員長が語る反転攻勢と社会変革の道筋


◇2020年08月11日11時58分掲載  無料記事  印刷用
「日刊ベルタ」
 
http://www.nikkanberita.com/

   関生反弾圧市民情報センター



   

 641日という長期拘留の末釈放された連帯労組関西生コン支部の武委員長を迎えて、月刊新聞『コモンズ』がインタビューを掲載した。戦後最大の労働運動弾圧が関生労組になぜかかけられたのか、権力は何を怖れたのか、武委員長は改めて関生型労働運動の本質に立ち返り、今回の大弾圧の本質を明確に解き明かした。延べ89人の逮捕者を出し、苛烈な経済的締め付けで同労働組合は大きな打撃を受けた。一方セメント資本もこれから本格化するコロナ不況と資本の進展を支えてきたグローバリゼーションの行き詰まりの中で矛盾を深めている。これからの展望について、武委員長は産業別労働運動と協同組合社会・経済構築という二本柱を軸とする反転攻勢についてもインタビューの中で明確に提示している。(大野和興)

資本主義の根幹揺るがす関生産別労働運動
戦後最大の大弾圧に屈せず反転攻勢へ決意


掲載に当たって:
 わが国労働運動史上類を見ない大弾圧は、2017年の12月のストライキ以降、2018年7月18日滋賀県警による弾圧事件に始まり、翌8月9日の連帯労組・関西生コン支部捜査、28日に関生支部武委員長の不当逮捕へと続き、労組幹部と組合員含め単一労組で延べ89名逮捕、組合員66名が起訴という大弾圧となった。
 最後まで獄にあった武建一委員長の奪還は5月29日かなった。だが警察・検察・裁判所一体となった弾圧が終わったわけではない。裁判所は、組合関係者同士の接触・交流を禁じており、武委員長はこの苛烈な保釈条件の中、組合員との再会はいまだ果たせていない。その武委員長に7月6日、率直な胸中と反撃への決意を聞いた。
(編集と文責・コモンズ編集部)



  






  2020.08.03 更新
 「関生運動」の弾圧の背景とねらい――「ドキュメンタリー映画 棘――埼玉上映会」(2020年8月1日[土])
  
 

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「関生支部の闘いとユニオン運動」
(木下武男:文)
   2020.08.03-2 更新



   §武建一委員長と私の出会い

 
武委員長と私との出会いから連載を始めることにしましょう。
 武さんが逮捕される二〇一八年の年始めのころでした。私は用事があって大阪の労働会館に行きました。隣の建物に関生支部の事務所があります。用事がすむと、武委員長が木下さんが来るんだったら話をしたいと言っているとのことでした。女子大学で教授をやっていた私と、関生の歴戦の武委員長とはどうみてもミスマッチであり、私は率直な話ができるのか緊張しました。
だけど武委員長はフランクな方で、本当に打ち解けて二時間半あまり延々と話ができました。
それには深いわけがあったのです。それは関西生コン支部の出生の「秘密」でもあります。そして武さんと私は実践家と研究者と立場は違いますが、一九七〇年代の労働運動の世界で、同じ空気を吸っていた、その時代とも関わります。

 この二人の間に介在する人物がいました。法政大学社会学部の教授の中林賢二郎さんです。学者だったので武さんはあまり意識していなかったようですが、日本に一般労働組合(ジェネラル・ユニオン)を紹介し、根づかそうと大きな努力をされた方です。

 中林さんは戦後直後、東京大学で学生運動を活発にやられたようで、その後、いろいろな問題をへて、結局はプラハの世界労連事務局の仕事をされました。世界労連は国際組織として戦後直後は一本化されていましたが、その後分裂し、国際自由労連ができました。重要なのは世界労連にはフランスのCGTや、イタリアのCGILといった共産党系のナショナル・センターが加盟していたことです。
 これらのナショナル・センターは産業別労働組合の全国組織の結集体であり、世界標準の「本当の労働組合」だったのです。明朗な性格の中林さんは、おそらく彼らと活発に議論をし、貪欲に経験を吸収したに違いありません。そして世界標準の労働組合論を身につけ帰国し、研究者となり、一九七一年に法政大学社会学部教授の職に就きました。私はその同じ年に、社会学部の大学院に入ったのです。指導教授は違っていましたが、中林ゼミの一員として労働組合論を学びました。当時、ゼミでは「レーニンの労働組合論」をテーマにしていました。私は『一歩前進、二歩後退』を担当させられ、明け方まで準備したことを覚えています。

 少し脇道に入ったようですが、ここからです。中林さんの関心事は、アカデミックな研究ではなく、プラハで獲得した「本当の労働組合」のあり方を日本にどのように移植するのか、そのことにあったのは当然でした。そこから当時、イギリス労働運動の左派の潮流の中心であった運輸一般労働組合(TGWU)の組織と機能を旺盛に紹介していくことになります。
 運輸一般は当時すでに一〇〇万人の巨大組合に成長していました。他の研究者と協力して翻訳もされました。また実践的にも労働組合と密接に関わっていたようです。
 労働組合運動の場面でも新しいうねりが起きてきます。それは未組織労働者の組織化の戦後における第二の波と言っていいでしょう。
 第一の波は合同労組運動です。一九五五年の総評第六回定期大会は未組織労働者の組織化の取り組みを本格的に提起しました。組織化の対象は、「全国単産のそそり立つ連峰の間の広く深い谷間に働く労働者――それは中小企業に働く労働者」(沼田稲次郎)と表現されるように中小企業労働者でした。合同労組方式はその労働者を地域を基礎に企業を超えて個人加盟で組織するやり方でした。
 しかし合同労組運動は、企業別組合の連合体である単産の体質には手を加えることなく、組織化の課題をナショナル・センターに預け、しかも組織化のためのオルグ集団に請け負わせる形になっていました。結局、一九六〇年以降の民間大企業労組の右傾化と大幅賃上げの時代の到来とともに、企業横断的組織化運動は後退していきます。
そして第二の波。それが一般労働組合運動だったのです。一九七三年に建設一般、七八年に化学一般、同年に運輸一般がそれぞれ結成されました。ゼンセン同盟も繊維産業からスーパーマーケット業界へと進出し、この時期、一般組合方式の組織化に本格的に取り組み出します。
 これら一般組合の特徴は、合同労組が地域の中小企業の労働者一般を基盤にしていたのに対して、産業・業種を明確にしていたことです。しかも大きな枠の産業ではなく、より狭い業種・職種ごとに業種部会をもうけていました。
 運輸一般(全日本運輸一般労働組合)は「定期路線部会」や「地場トラック部会」、「清掃部会」、「セメント部会」など一〇ほどの部会をつくっていました。
 そして、この業種別部会の運動を、大阪の地で典型的に展開していたのが若き武建一だったのです。

 この二人の間に介在する人物がいました。法政大学社会学部の教授の中林賢二郎さんです。学者だったので武さんはあまり意識していなかったようですが、日本に一般労働組合(ジェネラル・ユニオン)を紹介し、根づかそうと大きな努力をされた方です。




   「関生支部の闘いとユニオン運動」『月刊労働運動』(2020年4月号掲載、2020年5月1日))の全文は、下をクリックしてください。
   










  §苦難の闘いで見えた真の「敵」

  「関西生コン」運動の試練の時期


 一九七〇年代初めの一般労働組合運動の最先頭に、武建一委員長が立ったのは、もちろんそれにふさわしい闘争経験があったからです。この連載はこれからしばらくは、関西生コン支部の苦しい試練の時期から大飛躍の時期、そして「一九八二年分裂」によってこれまでの関生運動が破局を迎えるまで、歴史的に振り返ることにします。
 この八二年までの時期にこそ、産業別闘争を勝ち抜く「関西生コン」運動のすべてが凝縮されています。そしてその経験は「関生」だけでなく、日本の労働運動にとっても貴重な闘いでした。企業別組合が支配的な日本の労働運動のなかで、産業別組合を移植し、発展させる「勝利の方程式」、「勝ちパターン」を、関生支部はみずからの苦難の闘いを経てつかみ取ったのです。このようにすれば日本でもできる、労働運動に示した意味は限りなく大きいと思います。産業別組合を定着させる勝ち筋の「定石」は四つありますが、それぞれ詳しくは別途に説明します。ここでは歴史のなかでふれていくことにします。
 次頁に示したのは一九八二年の古い論文で、書いたのは武建一委員長です。掲載した雑誌『賃金と社会保障』の表題は「関西生コン労働組合運動の歴史と到達点」、副題は「業種別支部型労働組合運動が切り開いたもの」とあります。当時の生コン会館の写真ものっています。八二年八月上旬号ですので、まさしく共産党の排除・分裂攻撃の直前の文献です。
 この論文の出だしで、「今年、四〇歳ですが、生コン関係に携わってから二一年になります」と述べていますが、この「今年」の八二年こそが「二一年」闘ってきた「関生」運動の最大の到達点でした。歴史を振り返るにはこの論文を一つの参考にするのがふさわしいと思います。
 この一九八二年までの時期を論文では「七年間の停滞」と「その後の前進」の二つに分けています。一九六五年の関西生コン支部の結成から七二年までの困難な時期と、その後、七三年春闘での集団交渉の実現まで躍進の時期です。

 生コン産業の構造とセメント資本

 「七年間の停滞」の時期は、武委員長をして「本当に勝てるかわからない」と思わせたぐらいの苦難の闘いの連続でした。一進一退の攻防です。しかしそのなかで、「関生」は①巨大な敵を認識したこと、②味方の陣営を、統一指導部をつくり、固めたこと、③背景資本を相手にした闘争を、④産業別統一闘争という形で追求したこと、これらをつかみ取った教訓は大きなものがありました。
 生コン業界は戦後に生まれた産業です。また攪拌(かくはん)方式のミキサー車も開発されたのも一九五五年ですので、それを運転する「生コン労働者」という職種が登場するのもそれ以降のことです。その生コン運輸労働者は、入ったら抜けられない「たこ部屋」のような暴力的な労務管理のもとで昼夜なく働かされていました。それはセメント資本と生コン産業にとって輸送費の圧縮が利潤の源泉になっていたからです。
 一九六〇年、いくつかの労働組合が結集して「大阪生コン輸送労組共闘会議」(生コン共闘)を立ち上げました。ここで注目しなければならないのは共闘会議の参加組合や組織化した組合の特質です。小野田セメントの下請企業の「東海運」、日本セメントの生コン部門である大阪アサノ生コン、その下請企業の「関扇運輸」、大阪セメントの直系の生コン工場、その輸送部の企業「三成佃」という具合です。
 つまりセメント・メーカーの大資本があり、そのセメントの大きな需要先である生コン製造企業があり、その生コンを建設現場に運ぶ生コン運輸業者があるという構造ができていたのです。大手セメント資本―生コン製造企業―生コン運輸業者という一体的な業界構造が組合運動を規定することになります。
 この業界構造のなかで、生まれて間もない生コン労組は、暴力的管理と過酷な労働を強いている当面の生コン業者に改善を求めました。それは目の前の「敵」だから当然のことでした。しかしこの産業構造のもとでは、それは串刺しのようにセメント大資本をも貫くことを意味したのです。だから中小企業を相手にしている運動であっても、背景にある大資本が強く抑圧する構造があったのだと思います。
 その抑圧の攻撃は、生コン共闘会議の労働組合への「組合つぶし」と、また生コン車が大型車に変わる時期でもあり、「大量人員整理」としてなされました。その攻撃のなかで「幹部活動家」が多く辞めていきました。「頑張ってももう望みがない」。退職金の上乗せで「中堅といわれる幹部たちが辞めていきました」。こう述べる武委員長も、「勝てるかわからない」との苦悩を抱えていた時期でもあったのだと思います。
 しかし、セメント大資本が真の「敵」だとの認識は関西生コン労組を鍛え上げていくことになります。生コン労組が出会った敵は、小兵のような中小企業ではなく、小さな企業の裏に控えている巨大な独占的大企業でした。強大な敵に遭遇してしまったのです。
 ここのところが、さきに紹介した地域合同労組運動とは違っています。合同労組の基盤は、民間大企業の系列下請の企業というよりも、多くは地域の製造業やサービス業などの企業です。また民間大企業労組の運動をまねるわけにはいきません。
 関西生コン労組は、民間大企業のなかで労使協調でいく民間大企業労組のやり方でもなく、また民間の中小企業を相手にする合同労組の方式でもない、異なった闘争戦略を立てなければなりませんでした。労働者の利益のために闘う限りは、産業別組合を目指さなければならない必然性がここにあったのです。

木下武男(元昭和女子大学教授)『月刊労働運動』5月号掲載






   「関生支部の闘いとユニオン運動」『月刊労働運動』(2020年5月号掲載、2020年6月1日)の全文は、下をクリックしてください。
   

2020.0913 更新




  産業別統一闘争の合言葉―「一人の痛みはわが痛み」

  関西生コン支部は、セメント大資本が敵であることを自覚し、そこから産業別組合の方向で陣容を整えていきます。七三年の集団交渉が実現する以前、それは支部が産業別組合を確立する前段階でした。ここで、企業別組合の連合体から産業別組合へ向かう模索と試練の闘いがありました。また、この時期の運動と組織は、生コン支部だけではなく、日本の労働運動にとっても注目すべき時期でした。それは日本で産業別組合をどのようにして確立すれば良いのか、その先陣の位置にあったからです。
 産業別組合へ向かう闘いで関西生コン支部が獲得した貴重な教訓は三つあると考えられます。組織と運動路線と精神です。
 その第一は、産業別統一指導部です。この点はのちに詳しくふれますが、個人加盟組織であることもさることながら、より重要なことは労働組合の権限を支部に集中したことです。
 関西生コン支部の前身は一九六〇年の「大阪生コン輸送労組共闘会議」(生コン共闘)でしたが、この組織は企業別組合の共闘組織だったのです。これを基礎に一九六五年に関西生コン支部が結成されました。支部はその結成当初から、交渉権、争議権、妥結権の権限を支部執行部に集中する組織体制を確立したのです。この時点ですでに、関西生コン支部が産業別組合であることの特質の一つを、獲得したことになります。この体制がその後の産業別統一闘争の戦闘司令部の役割をはたすことになるのです。

 支部結成から七二年、七三年にかけて、支部が獲得した教訓の第二は、産業別統一闘争の運動路線でした。それは産業内の対企業闘争を徹底して闘い抜くという路線です。それは単産の争議支援とは少し違います。争議支援は個別の企業別組合の争議に単産に加盟する企業別組合が支援する方式です。この間の生コン支部の運動は、個々の組合どうしの支援ではなく、産業内の一企業に対する産別組織あげての闘いなのです。
 武建一委員長は当時、こう述べています。「職場では一人であっても労働組合の存在を認めなさいと、会社に求めていく。拒否すれば、一人であっても、それを支援するために全員の動員をかけて、その会社に抗議行動をしていく。組合員が一人もいない工場へも抗議、宣伝をする。そして、生産点を完全に止めてしまう。そういうことをずっと繰り返していました」
 これを産業別組合の運動に普遍化して表現すれば、産業別組合が規制する産業別労働条件の基準を破る企業、あるいは基準に加わらない企業、それらの企業に組合員がいようが、いまいが関わりない、ということです。その企業は、産業レベルでは闘争相手とみなさなければなりません。
 この運動路線は、いわば産業別〝動員主義〟という方法で遂行されました。この〝動員主義〟は、のちに議論になるところであり、あとでふれますが、それは組織をあげて、直接的な抗議行動を集中的に展開することです。紛争があった工場に動員する、あるいは紛争と関係のない工場でも動員して生産をストップさせる。親会社のセメント・メーカーの工場に動員をかける。工場の泊まり込み闘争、工場再開阻止のためのプラント打ち壊しの阻止の闘いなど、動員にもとづく集中的な行動がありました。
〝動員主義〟という言い方には、批判的なニュアンスがありますが、さきほどの産業内の個別紛争を、組織の総力を挙げ、力を集中して闘う方法としては、当然のことです。このような産業別闘争によって、この時期、関西生コン支部は注目されるようになりました。武委員長は「『生コン支部のような運動をしたら強い、われわれはああいう方式を求めているのだ』と言われるようなものをつくる闘争でもありました」。「〝暴力団よりも強いらしい〟ということになったのも、この時期です」と述べています。

 支部が獲得した第三の教訓は、産業別連帯の闘争精神です。自分が雇われていない企業であっても、労働者が踏みにじられていたら、身体を張ってでも支援する。このなかで、関西生コン支部は、産業別統一闘争をたたかう戦闘部隊に成長していったのです。だからこそこの時期に、あの関西生コン支部の言葉が、合い言葉のように根づいていったのだと思います。それは「他人の痛みはわが痛み」です。自分の企業でないところで労働者が抑圧されていれば、それは他人事ではなく、「わが痛み」としてとらえ支援する。この産業別闘争の精神にふさわしい言葉でした。
 この言葉は生コン支部がつくったのではなく、他でも使われていました。しかし、この言葉の真意は、「一人はみんなのために、みんなは一人のために」のような単なる相互扶助・博愛主義ではないように思います。
「他人の痛みはわが痛み」との言葉の由来は、私はわかりませんが、それと関連している言葉は昔から欧米の労働運動にありました。
 写真は、一八八九年のロンドンドックの大ストライキのあと次々に一般労働組合は作られ、その一つの組合の組合旗です。左の方に書いてある言葉が「一人に対して傷つけることは、みんなに対して傷つけることだ」(An injury to one is an injury toall)です。そして右に「我々は闘う。そして死ぬだろう。しかし、決して屈服しない」(We will fight and may die. But we never surrender)と書いてあります。戦後のアメリカでも、労働運動の後退を描いた本がありますが、その題名は「すべてにたいする攻撃」(An Injury to All)でした。
 関西生コン支部が獲得した「一人の痛みはわが痛み」は欧米の戦闘的労働運動の合い言葉と通底しています。産業内の「一人の痛み」も、統一闘争で「わが痛み」として闘うという精神だと、とらえることができます。

 集団交渉がまだ実現していない時期に、産業別統一闘争と、それを支える戦闘的な精神を、関西生コン支部が獲得した意味は大きいと思います。
 この力が次の段階を切り開いていったのです。



木下武男(労働社会学者・元昭和女子大学教授)

『月刊労働運動』2020 年6月号


   




   「関生支部の闘いとユニオン運動」『月刊労働運動』(2020年8月号掲載、2020年8月23日)の全文は、下をクリックしてください。
   







     暴力・弾圧に屈しない――「嘆くな。組織せよ!」


 組合結成から1970年代にかけて関西生コン支部は、経営者による職場の暴力支配と暴力的攻撃に直面しました。生コン業界は新規の参入が容易なため暴力団が経営に乗りだしたり、また経営者が暴力団を頼ったりしているのが実態でした。職場では組合員への暴力や脅迫が絶えません。これらに支部は職場で一つひとつ反撃し、また組合員を動員し、大衆行動ではねのける行動を取りました。
 1973年、大進運輸での組合員解雇に対する闘争が典型的な例でした。この大進闘争では、組合員動員による波状攻撃を四波にわたって工場にかけました。
 74年の1月5日には200人の組合の部隊で工場に乗り込むと、大日本菊水会の右翼が襲いかかり、殴る、蹴るで14人が負傷しました。支部は親会社の大阪セメントに抗議、謝罪と解雇撤回を勝ち取りました。この闘争で、組合員を集中動員して波状的に抗議行動を展開するという、今日までつづく基本戦術を確立しました。
 しかし、業界の暴力的な体質は改まりません。それどころかいっそう凶暴になりました。
 1974年、全自運大阪合同支部の片岡運輸分会の植月一則副分会長が、暴力団によって刺殺されました。時期は後になりますが、1982年には支部高田建設分会・野村雅明書記長が拉致され、リンチにより殺害されました。
 そして1979年、当時の関西生コン支部の武建一書記長の監禁・殺人未遂事件が起きたのです。山口組系暴力団入江組が、武書記長を一昼夜にわたって監禁し、昭和レミコン分会の解散などを要求し、殴る蹴るの暴力と「殺してやる」との脅迫を加えました。六甲山の山中に埋められる直前、実行犯のヤクザが同郷の徳之島出身と知り、解放され、一命を取りとめたのです。
 この弾圧と暴力的な攻撃を、支部の成長過程からとらえる必要があります。支部結成からの困難な闘いと、73年の集団交渉の実現、そして82年までの飛躍、この過程のなかで、1970年代をとおして、組織は前進を続けました。これに対して「なんとかして食い止めたい」という経営側の焦りが、暴力となって現れたのです。
 支部がこの時期に、暴力に決して屈服しないとの姿勢を確立したことはとても重要です。資本と賃労働の敵対的な関係で、資本は懐柔や脅し、労使協調の誘いをかけてくるのは当然のことです。闘わない弱い組合なら放っておくでしょう。しかし闘う組合に対して経営側に残された道は、組合を対等な関係として認め交渉していくか、あるいは暴力的に殲滅するか、この2つしかありません。後者の手段をとった経営者に屈してはならない、暴力にたじろいではならないのです。
 しかもここで大切なのは、経営側の暴力に対して支部は大衆行動=〝動員〟で対抗したことです。暴力には暴力で反撃しない。しかし屈しない。そのため支部は、総力をあげて組合員を結集し、抗議する戦術で対抗したのです。
 当時、全自運大阪地本は、暴力攻撃に対して裁判所や労働委員会に依存する傾向にありましたが、それとは対照的です。暴力には大衆行動で反撃し、社会問題化し、世論を味方につけ、暴力企業を社会的に包囲する。この闘い方こそが必要だったのです。
 組合員もその行動に参加し、体験する中で鍛え上げられていったと思います。また、前線に立つ幹部が、身体を張ってでも闘うとの姿勢を示したことは、支部統一指導部の信頼を高めたに違いありません。〝暴力団よりも強いらしい〟との噂は、実感をもって広がったのでしょう。
 暴力に暴力では対抗しない。しかし決して屈しない。その姿勢がわかる写真を紹介しておきます(下参照)。

 

 昨年、関生支援の「東京の会」準備会でも紹介したIWW(世界産業労働組合―シカゴに本部を置く米国最初の産業労働者組合連合体)の写真ですが、もう少し接近したものです。州兵の銃剣が胸元に迫っています。労働者は微動だにしません。ただ腕組みをしたままで立ち続ける。それで勝利したのです。今もアメリカ労働運動の歴史に残る「腕組みをしたままのストライキ」です。子どもや女性を奴隷のようにこき使う繊維産業での争議です。そのために、多くのIWWの組合員がかけつけたのです。

 以上見てきたように、関西生コン支部への弾圧は、支部の組織化の前進をなんとか押さえ込みたいとの意図からくるものでした。それは必然でもあります。産業別組合は、企業別組合と違って、産業別に労働条件を決めるので、その産業の労働者を組織し続けなければなりません。組織化が宿命づけられているのです。だから、この組織化が進めば進むほど、経営者や権力との衝突は、避けられないともいえるのです。それは世界の戦闘的労働組合が乗りこえてきた闘いでもありました。これもアメリカ労働運動の歴史に残る話です。
 IWWのオルガナイザーのジョー・ヒルはシンガー・ソングライターでもあり、日本でも「牧師と奴隷」など彼の作品はいまも歌われています。1914年1月、彼はユタ州で殺人事件の容疑で逮捕されました。そして、「でっち上げ」によって死刑が宣告されたのです。死刑執行の前夜、ジョーはIWWの指導者ビル・ヘイウッドに、アメリカ労働運動史上もっとも有名な文章を打電します。
 「さよなら、ビル。ぼくはきっすいの反逆者として死に臨む。ぼくの死を嘆いて時間を無駄にするな。組織せよ」。 この「嘆くな、組織せよ!(ドント・モーン・オルガナイズ)」は、その後のアメリカ労働運動の標語になったのです。2016年、アメリカ大統領選挙でトランプが当選した時、ある労働運動誌の評論の小見出しが「嘆くな、組織せよ!」でした。
 関西生コン支部も、暴力と弾圧をはねのけながら、「嘆くな、組織せよ!」の道を快進撃していくのです。



   「関生支部の闘いとユニオン運動」『月刊労働運動』(2020年7月号掲載、2020年7月31日)の全文は、下をクリックしてください。
   








 「第一次高揚期」における組織の飛躍――「箱根の山を越えて」

 関西生コン支部は、経営側の暴力的攻撃や弾圧を、組合員参加による産業別統一闘争ではねのけて前進します。支部結成から一九七二年までの困難な時期を乗りこえ、その後、七三年の集団交渉の実現から八二年まで支部は快進撃をつづけます。この時期を「第一次高揚期」と呼べるでしょう。
 その飛躍は組合員の増加から確認できます。組合史『風雨去来人馬』から当時の組合員数をひろってつくったのが図のグラフです。一九七九年の一一三五人から八二年の三二八八人まで急角度に組織が拡大しています。高揚期であることをはっきりみることができます。この急上昇の曲線の先に、関西生コン支部のみらず、日本の労働運動の新しい未来がみえるかのようです。

 さて、そこで、組合員数の飛躍の意味を三つの面から見ておきましょう。
 まず第一は、「面」の広がり、つまり大阪、兵庫を基盤にしていた関西生コン支部がこの拡大期をつうじて地域的に影響力をましたことです。京都、和歌山、奈良、滋賀そして福井へと広がっていきました。
 その組織化は、組合員を一人ひとり増やしていくという方式ではなく、個別争議を闘い抜き、それを足がかりに広げていくやり方でした。すでに確立した基本戦術つまり大衆行動による産業別闘争にもとづいて、支部あげて争議に取り組みました。例えば、一九七六年の福井県でのある争議には、バス九台、四五〇人の組合員を結集させました。その年の支部の組合員数が八四〇名だったので、そのすさまじさがわかります。
 その戦術の基礎にあるのは、一人の組合員の人権への侵害も、一つの分会の団結権の破壊も決して許さない、産別組織あげて守り抜くという思想です。その姿勢に支部の権威は高まり、労働者は共鳴し、組織も広がっていったのだと思います。

 第二は、組織拡大が他業種へと、いわば何本もの「線」の形で広がっていったことです。業種別ユニオンを「線」にたとえると、関生支部は多くの「線」を束ねる存在になっていきました。
 一九八一年(二四一〇名)には業種別には、①セメント・生コン( 一三九三名)、② バス・タクシー(二五二名)、③バラS S( 一八六名)、④ 原発(一八三)、⑤骨材・ダンプ(一五八名)、⑥トラック・倉庫(九一名)、⑦ポンプ・圧送(一五名)などでした。さらに一年後の八二年には、骨材・ダンプが三三五名、圧送・ポンプが九五名に飛躍的に伸びています。
 このような業種別に分会が増え、組織が拡大していることは大きな意味をもっていました。当時、全自運は運輸一般に名称を変え、一般労働組合を目指しました。すでに紹介しましたが、業種別部会もつくられていました。ところがその部会の内実は、関西生コン支部のような産業別闘争を展開する統一指導部をもつ段階にはいたっていなかったとみてよいでしょう。その段階で、関西生コン支部が業種別に組織を広げていくことは、その業界に一つひとつ小さな産業別組合をつくっていくことに等しいのです。つまり関西生コン支部が、業種別組織から、それらを包含する一般労働組合に成長する可能性があったということになります。関生支部それ自体が、一般組合の性格をもちつつあったのです。

 第三は、組織拡大が産業別闘争と政策闘争の質的強化をもたらしたことです。産業別闘争は、集団交渉の実現とその高い水準での妥結をもとめる運動であり、政策闘争は業界の構造を改革する運動です。この関生方式の根幹をなす運動は、集団的労使関係の形成いかんによります。つまり企業内の労使関係ではなく、それぞれの企業を業界に結集させ、集団交渉に参加し、その結果に従わせるようにしなければなりません。
 この集団的労使関係の支える基盤こそが、個別企業における組織化なのです。「第一次高揚期」に大阪兵庫工業組合の半数に分会が確立しました。地区別にみると北大阪八二%、大阪と神戸、北神で五〇%を超えていました。この組織化が、つねにブレる中小企業の経営者を、集団交渉に向かわせる力になったのです。

 さて、いよいよ関生支部が「箱根の山」を越えるところに話を進めましょう。そこでまず、神奈川県横浜の鶴菱運輸の争議を紹介しなければなりません。それは、鶴菱運輸が三菱鉱業セメントの五〇%出資の生コン企業であり、そして、この争議のさいに、「関生型運動に箱根の山を越えさせるな」と発言した大槻文平(当時、日経連会長)は、三菱鉱業セメントの会長だったからです。すでに小野田セメントは、一九七七年に東海運の争議で関生支部に屈服させられていました。つぎが「三菱」だったのです。大槻は「箱根の山」を越えたこの争議で手痛い打撃を受けたのです。
 争議の詳細は述べませんが、支部は、東京での三菱本社への抗議行動への動員や、関東の生コンの未組織企業への集中オルグ団の派遣などを行いました。さらに関西では、三菱セメント関係の生コン企業の製品不買運動や、同セメントの出荷のサービス・ステーション(SS)におけるピケットをはったストライキなどを敢行しました。この争議は運輸一般の「全国セメント生コン部会」による全国支援のもとで取り組まれ、そのなかで、関生支部の取り組みが全国から注目されました。次回お話ししますが、鶴菱闘争を契機にして、関生方式が「箱根の山」を越え、関東に広がり、やがて全国化する見通しが開けたのです。

木下武男(労働社会学者・元昭和女子大学教授) 「月刊労働運動」2020 年8月号掲載

  




   「関生支部の闘いとユニオン運動」『月刊労働運動』(2020年9月号掲載、2020年9月04日)の全文は、下をクリックしてください。
   

 


    ◆関西生コン・武委員長から、自筆の手紙が届く。
  ◆「ドキュメンタリー映画 棘」

資本主義の根幹揺るがす関生産別労働運動
戦後最大の大弾圧に屈せず反転攻勢へ決意

 ▽2020.07.25
月刊『コモンズ』(142号、2020年7月20日号)
◆資本主義の根幹揺るがす関生産別労働運動
戦後最大の大弾圧に屈せず反転攻勢へ決意


1.「国策弾圧」の本質はどこに
 強い権力意思を感じた弾圧の異様さ
 なぜ、企業別でなく産別労組か
 産業横断的政策闘争の発展を恐れて
 「関生支部の闘争は資本主義の根幹を揺るがす運動だ 箱根の山を超えさせるな」
 ――今も続く総資本の本音
2.今回の弾圧の特徴
 ――差別排外主義集団まで動員した大阪広域協幹部
 差別者集団・マスコミを動員し、暴対法適用、共謀罪視野に
 権力の先兵役、マスコミの大罪
 暴対法適用、共謀罪視野に民主主義の根幹への攻撃
 弾圧は友を呼び、関生の闘いを全国に拡げた
3.反転攻勢へ 
 主体強化、揺るがぬ戦略 戦術は「水の如く」
 失地回復へ、「一点突破」で
 自己犠牲いとわず闘う 幹部・組合員行動部隊を
 敵資本は利権での結びつき、内部で矛盾発生
 コロナ・パンデミック禍…時代が共生・協同の世界求める
 今後の闘いへの決意) 

関西生コン・武委員長から、自筆の手紙が届く。

 ▽2020.07.20
 ◇ これからという時、弾圧です。過去の歴史もそうです。今回の弾圧で組織は大打撃を受けましたが、敵の内部矛盾 は拡大しています。数年の間に再建の見通しも立っています。安心下さい。(2020年7月16日) 武 建一
(リンクページへ)

関西生コンクリート労組を率い 財界を恐怖に叩き込んだ伝説の男 武健一

  ▽2020.07.20
 
「埼玉上映会」(2020年8月1日[土])にご参加を。
 監督 杉浦弘子
 ▽13:30~(開場 13:00)
  埼玉会館小ホール
  ・アフタートーク:木下武男ほか。


(←左をクリックして)

権力は何を怖れたのか 1年9カ月の長期拘留を経た武委員長が語る反転攻勢と社会変革の道筋――関生反弾圧市民情報センター(「日刊ベルタ」[2020年08月11日11時58分掲載 ]にUP、大野和興)
◆『労働法律旬報』(2018年11月上旬号、1923号、発行日 2018年11月10日号に掲載)
 
 ◆『労働法律旬報』(2018年11月下旬号、1924号、発行日 2018年11月25日号に掲載)
◆まっとうな労働運動に加えられている資本による攻撃と「共謀罪のリハーサル」ともいえる国家権力による弾圧の本質を明らかにする!

生コン関連業種別ユニオン─ 連続講座第1回(後半)─
報告:武 建一(全日本建設運輸連帯労働組合 関西地区生コン支部執行委員長)

 ▽2019.02.05

生コン関連業種別ユニオン─ 連続講座第1回(後半)─報 告 武 建一(全日本建設運輸連帯労働組合 関西地区生コン支部執行委員長)

 ▽2019.02.05

連帯ユニオン 編、小谷野 毅、葛西映子、安田浩一、里見和夫 永嶋靖久共著

 ▽2019.02.05
旬報社、定価 本体1,200円+税 、2019年01月30日
◇バラセメント業界における業種別ユニオン運動の展開
 ─ 生コン関連業種別ユニオン連続講座第2回(前半)─
 報告:西山直洋(全日本建設運輸連帯労働組合近畿地方本部書記長)


 ◆圧送業界における業種別ユニオン運動の展開─生コン関連業種別ユニオン連続講座第2回(後半)─
 報告:阪口 充(近畿コンクリート圧送労働組合副執行委員長)/梶山義雄(近畿コンクリート圧送労働組合書記長)

  ◆資本主義社会を超える経済体制と実現の戦略―「関生」運動を基礎に―生コン関連業種別ユニオン・連続講座第3回─ 

『労働法律旬報』(2019年1月合併号、1927+1928号、旬報社、本体2,000円+税)誌に掲載された。

 ▽2019.07.25
 

『労働法律旬報』(2019年2月下旬号、1930号、旬報社、本体2,000円+税)誌に掲載された。

 ▽2019.07.25
 

報 告 津田直則(桃山学院大学名誉教授、大阪労働学校アソシエ・社会的連帯経済研究会代表)◇『労働法律旬報』(2019年4月上旬号、1933号、旬報社、本体2,000円+税)誌に掲載された。、

 ▽2019.07.25
◆2018.10.18 ◇研究会のパワーポイント:「資本主義社会を超える経済体制と実現の戦略ーー『関生』運動を基礎に」:
津田直則(桃山学院大学名誉教授 )

目次
 1.武委員長の築いた連帯労組の戦略体系
 2.社会的連帯経済研究会の構想-体制論、文明論、戦略論
 3.関生連帯労組の戦略と社会変革(統合案)
 
  (リンクページへ)

関西生コン支部の教訓と「本当の労働組合」――木下武男研究会代表が「分析・解明」してきた事実]  

 ▽2018.10.08
出所:《建設独占を揺がした139日―関西生コン労組のストライキが切り開いた地平 : 労働運動の現段階と業種別・職種別運動、木下武男、2011年4月、木下武男、丸山茂樹、変革のアソシエ》
労働組合の可能性 貧困=格差を乗り越える労働運動――武建一委員長が「解明」してきた事実、関西生コン支部とたたかいの40年、『世界』(岩波書店、2008年1月号)
関西生コン労働組合運動の歴史と到達点――業種別支部型労働組合運動が切り開いたもの(新しい労働組合運動の模索―2―他人の痛みはわが痛み)、武 建一、「賃金と社会保障」 847号、 p8―23、 1982年08月10日
 「業種別職種別運動」型ユニオンを実現している関西生コン運動  
▽2018.06.29
PARTⅠ 分析・研究:「業種別職種別ユニオン運動」研究会運営委員長 木下武男(元昭和女子大学教授)
◇木下武男著:『日本人の賃金』(平凡社、1999年08月)における分析
◇木下武男著:『格差社会にいどむユニオン』(花伝社、2007年09月)における分析、2 産業別労働協約を実現した「産業別・職種別運動」型ユニオン
PARTⅡ 分析・研究:「業種別職種別ユニオン運動」研究会運営委員長 木下武男(元昭和女子大学教授)
◇さまざまな労働関係誌面で「関西生コン」を分析――木下武男
業種別職種別ユニオンの構想◆特集Ⅲ 労働運動の新展開―ユニオン運動の模索―、木下武男、315号、2016年7月発行、日本労働弁護団の機関誌。
関生労組の歴史と日本労働運動の未来(上)/木下武男(元昭和女子大教授)、『コモンズ』(2016年4月17日)。関生労組の歴史と日本労働運動の未来(下)/木下武男(元昭和女子大教授)、『コモンズ』(2016年5月9日)。
『変革のアソシエ』(24号)、◆連帯労組関西生コン支部の歴史と日本労働運動の未来 木下武男、2016年4月15日発行。【発売所】株式会社社会評論社。
『関西地区生コン支部 労働運動50年――その闘いの軌跡共生・協同を求めて1965-2015)』、◆「関西地区生コン支部50年誌」編纂委員会、第2部 関生型労働運動の社会的意義
「産業別労働運動」を日本で切り開いた連帯労組関西生コン支部、木下武男、2015年10月17 日。    
建設独占を揺がした139日―関西生コン労組のストライキが切り開いた地平 : 労働運動の現段階と業種別・職種別運動(特集 関西生コン闘争が切り拓く労働運動の新しい波)、木下武男、『変革のアソシエ』(5号)、8―17、2011年1月。
ワーキングプアの貧困からの「離陸」――職種別ユニオン運動という選択肢(特集 貧困とたたかう)、木下 武男、世界(773)、132―138、2008年1月。 
◆2018.06.25 ◇PARTⅢ 熊沢誠:「社会的労働運動」としての連帯労組・関西地区生コン支部
◆2018.07.05  ◇PARTⅣ 関西生コン支部からの発信 
武建一関西地区生コン委員長の主な著作・論文他
関西生コン関連の主な単行本
『関西地区生コン支部労働運動50年-その闘いの軌跡
共生・協同を求めて1965~2015  他人の痛みを己の痛みとする関生労働運動』
出版:全日本建設運輸連帯労働組合関西地区生コン支部、「関西地区生コン支部50年誌」編纂委員会編、発売:社会評論社、本体3500円+税、2015年7月

事業協同組合、バラ・圧送・生コン業界と職種別労働組合の意義

 ▽2018.10.06
◆ 3 業種別職種別ユニオン運動の広がる基盤と可能性――◇出所:《業種別職種別ユニオンの構想◆特集Ⅲ 労働運動の新展開―ユニオン運動の模索―、木下武男、315号、2016年7月発行、日本労働弁護団の機関誌》
 ●労組と事業協同組合との共同――◇出所:《建設独占を揺がした139日―関西生コン労組のストライキが切り開いた地平 : 労働運動の現段階と業種別・職種別運動、木下武男、2011年4月、木下武男、丸山茂樹、変革のアソシエ》
 ●受け継がれる「関生」の歴史的教訓――◇出所:《建設独占を揺がした139日―関西生コン労組のストライキが切り開いた地平 : 労働運動の現段階と業種別・職種別運動(特集 関西生コン闘争が切り拓く労働運動の新しい波)、木下武男、『変革のアソシエ』(5号)、8―17、2011年1月》
 ●職種別ユニオンへの「離陸」――◇出所:《ワーキングプアの貧困からの「離陸」――職種別ユニオン運動という選択肢(特集 貧困とたたかう)、木下武男、世界(773)、132―138、2008年1月》。



      
                         
       
                                                               



▽「業種別職種別ユニオン運動」研究会のページ




      


    

        
 
  

  
   
      


 


編集人:飯島信吾
ブログ:ある編集者のブログ
企画・制作:インターネット事業団のホームページ
      現代労働組合研究会のホームページ
      インターネット事業団(本メールにご連絡ください)

UP 2020年07月30日
更新 2020年07月30日
更新 2020年08月03日
更新 2020年09月13日
更新 2020年11月05日