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「労働争議」(1998年大月書店刊)の終章)

労働争議と日本の社会

 いままでつぶさに見てきたように、労働争議は、企業の一方的、専制的行為にたいして、決然と不同意を表明した労働者たちの、さまざまな実力行使をともなう、抵抗運動である。それは、企業と労働者の対立点をめぐる労働者の運動であるから、労働組合運動にとってはその一部分にほかならない。
 しかし、交渉が決裂し、或いは交渉の場をもつことさえ拒否され、労使双方の非妥協的な対立を前提にしてはじまる運動だから、普通の、平時の労働組合運動からは大きくかけ離れたもののように見える。だがそこで争われているのは、日本の労使関係全体に共通する基本的な権利をめぐる対立点であり、争議ではそれが、典型的に、鋭く現れているにすぎない。だから、争議の結末は、広く日本の労働者に、長く将来にわたって影響を及ぼすし、社会のあり方さえ変えていく可能性をもつ。
 労働争議が、労働運動一般のなかでもつ一つの特殊性は、それが社会的に公然と争われる点にある。普通の組合運動は、肝心なところが企業の壁のなかで争われ、ボーッと霞んでしまう。その全容が社会に明らかにされることは、きわめて稀だ。春闘相場などといって、マスコミにとりあげられることはあっても、それだけでは、どう配分されるのかもわからないし、企業のやり方と労働者の実際の生活は、ほとんど見えてこない。
 しかし、争議になると違う。企業が、どんなにおぞましいやり方で労働者たちを支配しているのかが、白日のもとに明らかにされる。それは、しばしば裁判所や労働委員会という、社会的に設定された公けの場所で告発され、証言される。ビラやパンフも出る。こういう非人間的な支配が、現在の社会の土台である企業の内部で行われているという事実は、わたしたちを慄然とさせる。しかしその“わたしたち”も多くが企業に勤める労働者だ。争議になるケースとは程遠いかもしれないが、基本的には同じような桎梏の下で喘いでいるのではないか、と気がつく。たとえ現在の経営者がそんなに酷くはなくても、親会社や銀行の支配が強まったら、或いはこんなご時世だから倒産でもしたら、序章でいうように“明日はわが身”なのだ。“企業”という無意識に身をゆだねきっている枠をはずしてみると、この社会では“お先真っ暗”なのだ。だから労働者は、ともすると“会社あっての物種”という気分になってしまう。仕方ないのだろうか。
 いまの社会の支配的動向にたいして、決定的な不同意を表明することからはじめた労働争議の当事者たちは、その生死を賭けたといってもよい、一生にかかわる闘争に勝利するために、この世で手に入れるあらゆる“武器”を点検する。そして発見するのは、日本には、産業別業種別労働協約という、本来労働が生き、たたかううえで決定的に重要な“武器”が、欠落しているという事実だ。この国には、労使が対等の立場で自主的に決めた社会的ルールがないに等しい。これは国際的にみても類例がない。つまり近代的な市民社会の基本的な条件を欠いている。だから“村八分”の職場版のような封建的遺制が、ハイテク機器の林立する企業の内部で行われているのだ。
 横断的な、非企業内的労働協約による社会的な労働条件基準の欠落は、さまざまな困難を労働者のうえにもたらす。
 仮に、企業内労働協約――多くは就業規則で代用される――がかなりしっかりしているところでも、序章に述べたような大企業の倒産や赤字転落すら日常茶飯事になっている現状では、産業別協定がなければ労働者は救われない。たとえどんなに立派な企業内協約があっても、企業経営が悪化したときに、関連産業の資本が業界全体として労働者の権利を保障するような諸条件の設定は不可能である。
 問題は、それだけではない。企業内協定では、「身分」などという封建的な差別的格差を含む複雑な雇用形態に対処できる横断的な権利条項もほとんど望みえない。昨今の派遣、パート、アルバイトなど不安定雇用労働者の増大にはとても対処できないだろう。
 さらに問題なのは、そのために日本では、労働法規の改善が困難であり、改悪が容易だという事態を招いていることである。ドイツやフランスで週三五時間労働を中心とする法改正が行われようとしているのに、日本では逆に「労基法」の改悪が進むのはなぜか。政府の姿勢がちがうとかいろいろな理由はあるだろうが、決定的なのは産別協約の、或いはそのための運動の、欠如だ。産別協約の改悪が望めないとしたら、或いは産別協約が改善されるのなら、むしろ資本の方も競争条件の平準化をのぞむために、産別協約からまぬがれている新興中小資本、新規参入資本などを制約するための法改正を求める可能性もありうる。どんな国でも、法規の改正には労働者側の賛意だけでなく、雇用者側の理解もある程度なければ不可能だ。
 そして、最後の大問題は、日本では経営者だけでなく、労働組合の方も産別協約の締結に熱心でないことである。企業内でない横断的協約つまり本当の労働協約の獲得こそが労働組合の最大の仕事、ほとんど唯一の任務だといってもよいのに、建設、港湾、運輸の単産をのぞいてほとんどの労働組合が、この点を理論的にも実践的にも軽視している。わかっているけれど、資本側の壁も厚くとてもできないというボヤキが聞こえるような気がする。しかし、この世で――高度に発達した社会で、労働者の多数が真剣に望めば、実現しないことは何もない。そして、普通の労働者が、これを望まぬはずはない。問題は、労働運動の指導部が、必要な教育啓蒙の活動を系統的に粘り強く展開していない、さらに、そのために不可欠な広範な労働者の統一を、誠実に追求していない、ということだけである。
 労働争議は、われわれの運動のこのような構造的欠陥を発見してしまう。そして、横断的協約の不存在が示すのは、労働運動側の欠落だけでなく、日本の社会の根本的歪み、その前近代性なのであろう。そこでは、血縁と地縁とそして企業のつくる社会的組織はあるが、労働者の自主的社会組織はないに等しいことに気づかされるのである。そして争議団員は、本来彼らだけでは埋められぬこの空白を、その献身的奮闘でいくらかでも克服する。彼らは、たとえば裁判の判例や労働委員会の命令という形で、国際的機関の対政府勧告によって、和解協定書によって、なによりもこれらすべてを含んだ争議の解決という社会的事実によって、それまで存在しなかった雇用関係の社会的規範のある部分を、設定することになる。けっして産業的労働協約のような洗練された形態ではないが、日本のすべての労働者に貴重な贈り物を遺すのだ。
 激烈な、しばしば長期にわたる労働争議は、もしそれが全力をあげてたたかわれて、なんらかの労使合意に到達して終わったのであれば、獲得したものがどれほどあろうと、運動側にとって勝利といって差し支えない。運動側にとってだけか、当事者にとっては違うのか。もちろんそんなことはない。真剣にたたかった当事者にとって、どんな争議でも、マイナスだった、無駄だった、余計な回り道をしたと思われることはけっしてない、と私たちは確信をもっていえる。事実が、証明している。たたかった労働者たちは、誰もが、人間としてたたかうべきときに勇気をもって立ち上がって、全力を尽くした喜びに満ちれている。
 彼らは、世の卑俗な「常識」に屈せず、正しくあらがって、資本の、問答無用の「会社」という怪物の、不正不当を許さずにたたかったのだ。そして恐らくは、全く不利な、弱体な、徒手空拳の孤立した状況からはじめて、多くの人びとの共感を組織し、社会的富の集積である資本と十分に拮抗対立して、一定の譲歩を含む合意をかちとりたたかいを収めたのだ。
 労働組合運動がそこから学ぶべきものは、この書で示したように、限りなく多い。そして運動の側がこれに学び、これを受け止め、社会進歩への能動的要因として、彼らの示した戦略的な課題を自らのものとするならば、実はそれが、争議団員それぞれの充足感をこえた真の勝利であり、彼らの苦闘に報いるただ一つの贈り物なのである。
 数多の争議団員たちは、わたしたちに、その身をもってこう問うているのではないだろうか。
 ――あなたがたも、たたかって生きるのですか、と。  

佐藤一晴 追悼・遺稿集刊行委員会編「一晴の夢、歩んだ世界」(2002年11月16日発行)所収
初出:鴨川孝司・佐藤一晴・戸塚章介・松井繁明共著「労働争議 たたかって、生きる」(大月書店 1998年11月20日刊)